江戸から八十里半。
前回の続き。
妻籠宿からバスに乗り、8km隣まで向かうためにバス停に並ぶ。
…までは良かったのですが、凄まじい数が並んでまして。
臨時バスは来ず、1台の路線バスに当然の如く鮨詰めにされます。
過積載にも限度があるだろって言いたくなる(重すぎて曲がれずタイヤがスレる)レベルで、
熱気で猛烈に熱苦しい30分、酷い思いをしました…。
そんな思いもありながら着きたるは馬籠(まごめ)宿。
中山道木曽路11宿の11番目、長野県境のすぐ際に位置します。
妻籠宿と違い、参道は坂道。
標高約800mの馬籠峠がほど近くにあり、
妻籠のように平坦な道が確保できなかったからだと思われます。
道路が南北に貫通しているが急な山の尾根に沿っているので、
急斜面で、その両側に石垣を築いては屋敷を造る「坂のある宿場」である。
(『木曽馬籠』観光協会)
下りは良い良い、上りはちょっぴり疲れるのです。
さて、『馬籠』の地名由来を考えて見ましょうか。
昨秋の妻籠宿では
妻とは褄の省略であり、
褄とは着物の部位の1つで、裾の左右の両端のことを指します。
一方で籠は、奥まったところの細々した集落のことで、駒込の「込」と
似た意味を持ちます。
(考察)
という雑話をしました。
江戸から京を繋いだ中山道の宿場町。
「馬」の往来が激しかったのは想像に難くない。
また地理的条件では妻籠以上に奥まった集落であったこと、これも明らかでしょう。
しかし長距離移動では、移動の早い馬はもちろんですが牛を扱うことも多く、
嶮岨な木曽路は思うように速度も出せず、馬では足を取られて大変だったのではと感じます。
「おい、峠の牛方衆――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」
「当分休みよなし。」
馬を扱う馬方だけでなく、牛での荷運びを生業とする牛方も数多く存在し、
馬方の使う宿場を同じように使っていたと云われています。🐎🐄
単純に「馬」が良く通ったことに由来するのは腑に落ちないなと。
そして「つまご」「まごめ」、音が非常に似通っている。
そもそも木曽路最端の馬籠を差し置き、
手前の妻籠を『木曽の端っこ』と表現するのは意味が通らない。
そう考えると『その昔、馬籠地区を含んで妻籠と総称していたのではないか』と
勝手な推測をしてみると、しっくり来る。
峠沿いの各集落を結んだ宿場町の規模が拡大するにつれ、一方が分化して
以前の呼び名をもじった結果として『馬籠』となったのではないか。
まあ所詮は眉唾物。憶測の域を出ません。
次に来た時は是非郷土資料を読み漁りたい。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、
美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。
なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
宿場町から望む特徴的な台形の山容。日本百名山の恵那(えな)山です。
天照大神伝説の山体はさながら美濃のランドマーク。
藤村も幼少期には恵那山を眺めて育ち、『夜明け前』でも度々名が出てきます。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。
「えゝ、日によってよく聞こえます。
わたしどもの家は河のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。
そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
宿場町の上の展望台から。
左の山が朝方登った南木曽岳…なのだろうか?
湯舟沢山、神坂峠を越えて恵那山へ繋がる。
恵那山で磨かれた水は中津川となり、三重県へ長旅をして伊勢湾へと注がれていく。
まさに本州の中心、木曽山脈を代表する山です。
うーん、恵那山はええなぁ。(うまい)
嫋やかな木曽山脈を眺め、後ろ髪を引かれながらも次の旅路へと。
続く。