長野は蜘蛛の巣。
尾又は妻籠宿の南端に位置する。
ちょうどこの看板がある場所を北東端とし、南へ300m、
蘭(あららぎ)川を挟んで西へ200mの範囲が尾又地区だ。
この地にはかつて中山道から伊奈道(=伊那街道)へと分岐した道が続いていた。
1593(文禄2)年、豊臣秀吉により開設。その後、1600(慶長5)年に
徳川家康が五街道として木曽街道(中山道)・甲州道中(甲州街道)を開いたため、
伊那街道の宿駅は飯田・高遠藩支配となり、その機能も特権も縮小され、
脇街道として庶民や商人に利用されることになった。
「伊奈街道」と同義だが、一般的に用いられるのは「伊那」の方が多い。
伊那街道は長野県塩尻から分岐して、伊那・飯田を経由して南下し
愛知県岡崎市で東海道と合流する中山道の脇往還(五街道以外の主要街道や抜け道の総称)。
関所の数も少なく、混雑もない抜け道として旅人に歩かれたが、
現在では国道256号線が飯田へと続く役目を担っている。
当時の往還の名残が、ここから延びる脇道の竹藪の中に未だ残存しているそうだ。
『伊那街道』は現行国土地理院地図によれば、長野県根羽村~愛知県設楽町を繋ぐ
青の道にその名が残されている。
また三州(=三河)を繋いだことから『三州街道』の別名も存在する。(現:国道153号線)
そして長野側では三州街道、愛知側では『飯田街道』(現:国道153号線)と呼ばれ、
つまり飯田街道は伊那街道の別名であり…と、一見すればしっちゃかめっちゃかだ。
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伊那街道は江戸時代の通称であり、
明治期にその一部が三州街道・飯田街道と区別して呼ばれ、
昭和の工事により大部分が国道153号線に、青の道はされなかった名残の道である。
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単純な時系列で考えればこういう話なのだろう。
また隣の別所街道(現:国道151号線)も、三河の豊橋市を起点に東栄町(別所村が合併)を
中間地点として飯田へ抜ける往還であり、設楽町から目鼻の先だ。
同じ目的地へ繋がる、隣り合わせの道。こちらも個人的には全く無関係であるとは思えない。
当時は静かながら交流や相互往来もあったと見た。
五街道の脇往還として使われた関所跡など、街道沿いに残存しているので
もし当時の旧街道があれば、次の機会に歩いてみたいと思うのだが
いかんせんアクセスの問題が付きまとう。
特に色濃い場所に辺りをつけて、いずれ数回に分けて歩いて見よう。
はてさて何年後、何十年後になるだろうかな。
いつかその時が来るまで、あっためておく小話。
ばい。