アウトドアと飯のあれ

神奈川→富山在住のアウトドアと飯と旅行のあーだこーだ

2019年5月29日 旧山田村②数納集落

前回の続き。

 

 富山の昭和~平成初頭の廃集落を一冊の本に纏めた『村の記憶』では

山田川流域で5つ取り上げられている。

その中で最も訪ねやすい集落が、今回の舞台。

 

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現行(中心が数納)。

数納(すのう)集落。

現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)

 

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旧版地図には南東(御鷹山)に神社。明治版には別途『山中』集落の記載があった。

永禄・天正年間(1558~1592)開村。

集落から北東方向、旧八尾町境に位置した若狭城(=大道城)城主の

鈴木権之守が居舘を構えた地であり、開村当時には『鈴木』と呼ばれた。

 

城の武将が代わるに連れて呼び名も変わり、廃城となった後には

山奥の僻地ではあるが田畑を開墾し、数多の貢租を納めたことから現在の地名に至る。

或いは若狭城の納倉があったこととも言われる。

 

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集落内に鍋谷小学校数納冬季分校があったが、廃村と同年にその幕を閉じている。

 

数納から鍋谷小学校までは、山肌を沿って凡そ4km歩くことになる。

学校をこの地に作るのは、地元民の達ての望みだったのだろう。

 

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雪国お馴染みのスノーシェッド。

分岐からの標高差は然程ないが、御鷹山麓を縫うように走る県道沿いにある為、

近年まで積雪や山崩れに悩まされ続けたと郷土史が語る。

現在でも大雨、積雪時には通行制限がかかる正に陸の孤島

 

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集落の手前、良く手入れされた祠。

石仏を守る祠も昭和半ばに雪崩に遭いコンクリートへ生まれ変わった。

かつての住民が山菜取り等で訪れ、手入れをしている。

 

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集落を見ると、山側にかつての石積が散見できる。

 

残されたものの一方、別の地で余生を過ごしているものもある。

同地の山岸家は文久2年(1862)に建築された合掌造り住宅で、

呉羽富山市民俗民芸村に移築され、当時の暮らしを後世に伝えている。

 

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移築された牛嶽社を伝える碑。

村社の牛嶽社は前述の通り、集落南東に鎮座していたが、

廃村と同年に婦中鵜坂神社へ合祀。

 

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猿丸大夫塚。

集落入口には後年碑が建立されている。

猿丸大夫伝説は国内各所に残り、県内では山を挟み旧八尾町小井波にも所縁がある。

 

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の

             声きく時ぞ 秋は悲しき

この有名な一首、数納ではこの地で詠まれたとされる。

 

大夫の諸国行脚で越中へ訪ねた際に、牛岳を越えて

深道(ふかどう)の峠に差し掛かると、

数納の後方に見える御鷹山、照輝く満山紅葉の美観、

聞こえる鹿の鳴声が実に雅であり、暫時足を止めて詠んだとある。

 

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集落から深道・高清水方面を眺める。

奥地からは素晴らしい緑一色の景観が一望できる。

いずれ紅葉の時期に改めて来てみたいと思う。