前回の続き。
富山の昭和~平成初頭の廃集落を一冊の本に纏めた『村の記憶』では
山田川流域で5つ取り上げられている。
その中で最も訪ねやすい集落が、今回の舞台。
数納(すのう)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)
永禄・天正年間(1558~1592)開村。
集落から北東方向、旧八尾町境に位置した若狭城(=大道城)城主の
鈴木権之守が居舘を構えた地であり、開村当時には『鈴木』と呼ばれた。
城の武将が代わるに連れて呼び名も変わり、廃城となった後には
山奥の僻地ではあるが田畑を開墾し、数多の貢租を納めたことから現在の地名に至る。
或いは若狭城の納倉があったこととも言われる。
集落内に鍋谷小学校数納冬季分校があったが、廃村と同年にその幕を閉じている。
数納から鍋谷小学校までは、山肌を沿って凡そ4km歩くことになる。
学校をこの地に作るのは、地元民の達ての望みだったのだろう。
分岐からの標高差は然程ないが、御鷹山麓を縫うように走る県道沿いにある為、
近年まで積雪や山崩れに悩まされ続けたと郷土史が語る。
現在でも大雨、積雪時には通行制限がかかる正に陸の孤島。
石仏を守る祠も昭和半ばに雪崩に遭いコンクリートへ生まれ変わった。
かつての住民が山菜取り等で訪れ、手入れをしている。
集落を見ると、山側にかつての石積が散見できる。
残されたものの一方、別の地で余生を過ごしているものもある。
同地の山岸家は文久2年(1862)に建築された合掌造り住宅で、
呉羽の富山市民俗民芸村に移築され、当時の暮らしを後世に伝えている。
村社の牛嶽社は前述の通り、集落南東に鎮座していたが、
廃村と同年に婦中鵜坂神社へ合祀。
集落入口には後年碑が建立されている。
猿丸大夫伝説は国内各所に残り、県内では山を挟み旧八尾町小井波にも所縁がある。
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき
この有名な一首、数納ではこの地で詠まれたとされる。
大夫の諸国行脚で越中へ訪ねた際に、牛岳を越えて
深道(ふかどう)の峠に差し掛かると、
数納の後方に見える御鷹山、照輝く満山紅葉の美観、
聞こえる鹿の鳴声が実に雅であり、暫時足を止めて詠んだとある。
奥地からは素晴らしい緑一色の景観が一望できる。
いずれ紅葉の時期に改めて来てみたいと思う。