いつの世も、隧道を掘るのは大変な労苦です。
何かしら労苦に見合った目当てがあり、初めて開通するわけです。
そして廃隧道を探し求める者達も出てきて、今や一大ジャンルです。
尤も、廃隧道の多くがコウモリの棲家となり果て、僕はコウモリが苦手ですから
「いざ、鎌倉」と思っても、足が勝手に茅ヶ崎の方に向いてしまうのですが。
そんな話はさて置いて、数納(すのう)集落からスタートです。
数納集落は主要地方道、県道59号線が中心を走るのですが、
その59号線の先へ行きましょう。
かつて存在した富山市山田数納から南砺市利賀村栗当に至るルートは
完全に廃道化し、その痕跡を徒歩でたどることすら難しい。
利賀村栗当の終点側分岐にいたってはほとんどの地図に
記載すらされておらず、常に車両通行止めの上すぐに道路そのものも
獣道となり消滅する。
県道59号線の未供用区間はオブ界隈で名が知られています。
未供用にはいくつかの種類がありますが、
59号線はどうやら住民の意向や強い要望で私道化されているわけではなく、
単純に落石や土砂崩れで路盤が塞がっていることもあるとの話です。
じゃ、歩いて行けば良いじゃんね。
というのが今回の事の発端。
実際歩くと感じるのですが、いやに道幅が広いです。
今でも居住者がいる谷集落~数納までが1.5車線だったのに対し、
数納(昭和46年廃村)~栗当(くりとう)(昭和54年廃村)間では広々と2.0車線余り取っています。
あえて失礼な言い方をすると『不釣合い』です。
特別2つの村の交流が盛んだった、という話も聞かないです。
そもそもこの道の工事はいつ始められたのでしょう?
その疑問は郷土史が答えています。
村道の整備
四十四年
(中略)さらに若土利賀線(現利賀数納線、数納妙厳地内)
(中略)の開設に(自衛隊の)協力を得たところである。
(『山田村史 現代編』)
利賀数納線の改良(約四六〇〇メートル)は、
過疎法(過疎地域振興特別措置法)によって、富山県が山田村に代わって
改良工事を施工している(過疎県代行事業という)。
現在(平成17年編纂)も施工中である。
(『山田村史 現代編』)
編纂から13年後。
元号も変わりましたが、未だ見通しが経っているか定かではありません。
何が勿体ないってこの未供用箇所、
前述のややオーバースペックな造りから推察するに、
景勝地観光のための、言わば町興し事業も兼ねた建設だったと思うのです。
先程から見える緑の峡谷こそ、妙厳(みょうがん)峡。
県民でも聞き覚えのないマイナー景勝地。(僕だけが知らないのかもですが)
景色の切れ間に短いスパンで造設された休憩所といい、山田村はここを
黒部峡谷や神通峡に並ぶ、紅葉の一大絶景スポットにする腹積りだったのではないか。
そしてそんな浪漫が滲み出る道中にあるのが、今回の主役でもある妙厳隧道。
飲み込まれそうなほどの真っ暗な口を開けています。
深淵を覗くときは深淵もなんちゃらかんちゃら。
栗当の廃村化から1年後の昭和55年に着工し、2年の歳月を経て竣工しました。
長さは然程でもなく、260mしかありません。
急カーブで向こう側が遮られているので、昼間でも真っ暗なのです。
これだけ山奥ですから、当時電気を引っ張るのも一苦労だったのでしょうか、
照明設備は自前の風力発電で賄っていました。
トンネル内の照明電源は風力発電による珍しいものであったが、
五十九年の春、春一番の台風で風車が飛ばされ
復旧の目処がたたないまま現在(平成17年編纂)に至っている。
(『山田村史 現代編』)
縦しんば予算が取れて道路整備を行い、再開通としようとしても、
この隧道の設備の大元が破壊されたので照明が灯らない。
真っ暗なままでは危なっかしいので車を通せないのですが、
風車を新設するとなったら路盤整備だけでは済まなくなるので
余計にこの道を通す工事の採算が合わなくなり放置、
そしてますます路盤が悪化していく…の負の連鎖に入っているのかな。
しかし、殆ど誰も来ない道だからこその特別な景色がここにはあります。
カモシカも路肩で寛ぎ、アリの大群が王国を築いていました。
彼らにとっての廃道は、山の中に湧いたオアシスなのかもしれません。
そう思うと、かつての先人の想いを果たす為に直すべきなのか、
はたまた自然の侵略に身を任せるのが正しいのでしょうか。
未供用部分の核心部を見に行こうかと思ったけど、疲れたから帰りました。
今度は自転車で来ます。🚴
おしまい。
(※当該区間は落石・土砂崩れの危険があります。
当記事を参考にして被害に遭われても一切の責任を負いません。)