山岳からの湧水の恵みに育まれた地には凡そ2万人が暮らす。
その蒼と深緑の豊かな町の奥、険しい山谷に数々の集落を携えている。
護摩堂(ごまどう)集落。
現在の世帯数1、人口2名。(H30国勢調査)
(※上市町H30住民登録人口では字無記載)
上市町中心から約10km走り、遠く田園を眺めながら山腹を走った先、
やがて開けた土地が見えてくる。
存外に人の往来は多い。
その理由として、とやまの名水20選の1つ『弘法大師の清水』が集落内にあり、
これが古来より『頭が良くなる水』と呼ばれ、人気が高い。
今回もロードバイクや乗用車と幾台もすれ違った。
集落の起りは今から1300年以上前、
大宝元年(701)に越中国守の代官に任ぜられ、越中に下った三浦浅右衛門勝信なる者が、
この地の峰に登り眺めると、当国の端まで隅々見渡せる面白き場所なので、
屋敷を構えて観世音菩薩像を安置したのが始まりと伝えられている。
その100年後の延暦二十一年(802)、齢29の弘法大師空海が集落を訪れる。
当時付近の山野は猛獣毒蛇の巣窟と化し、人の暮らしを脅かしていたが
空海が住民の安寧を祈り、胡麻を焚いて野獣の放逐を神に祈祷した。
以後、当地を護摩堂と称えるようになったとされる。
登拝の道を聞くために護摩堂へ訪れたとのことだ。
人口が多い年で明治22年、27戸150名が当地に暮らしていた。
今では想像できないくらい喧騒が絶えなかったと、当時が偲ばれる。
明治から昭和にかけて、集落の学童は3km先の東福寺分校などに通学していた。
転機は昭和27年10月21日。集落内に護摩堂分校(現南加積小学校に帰属)が落成する。
住民の念願であった学舎で、多くの子供達が当地で勉学に励んだ。
しかし間もなく昭和30年代から急激に離村化が進み、
昭和27年には20戸107名だった人口も、堤を切ったように下がり始めた。
分校も昭和48年には在学児童が絶え、昭和51年に閉校。24年の歴史に幕を下ろした。
その後も人口減少は続き、新世紀を迎える頃には一時廃村と化した。
集落内には暫く茅葺屋根の家屋が残存していたそうだが、
昭和56年の豪雪(五六豪雪)により多くが崩れて、現在は跡形もない。
その後暫く月日は流れ、集落内にレストラン・宿泊施設が開業する。
『八十八(やとはち)』は京都・東京・高野山で修業を積み
ニュージーランド日本大使館で腕を振るったシェフが懐石料理を提供している。
辺りは観光地も何もない立地だが、それを求めて口コミで国内外より、
遠くは海を渡ってドイツやシンガポールから、都会の喧騒を忘れた自然の中へ
やってくるそうだ。
大正から昭和にかけて当地からブラジルに渡った方の子孫が、
廃村後も残る墓石や碑へ訪れる等、冬は豪雪に閉ざされる山村でありながら、
その実はグローバルな交流の広がりが見える。
高名な清水の裏側で、様々な人間模様が見え隠れした集落だった。