前回の続き。
黒川集落から五位尾集落へ向かう道、
両集落の中間に、ここに集落があったことを知らせる石碑と跡地が存在する。
開谷(かいだん)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
集落の起源は町誌で次のように語られている。
開谷集落の起源
中世には好田坊、作内坊、奥野坊、源内坊によって開拓され、
近年まで無本山無檀那であったことや、鎌倉、室町期の五輪塔の存在や、
地名「戒壇」(僧になる授戒を受ける際に用いられる儀式的聖域)の意から考えると、
開設された宗教村落と思われる。
(『上市町誌』)
また別説では水成岩層に貝の化石を含有することから、『貝谷』が
字を変えたとも言われている。
一時は七堂伽藍建ち並び、信仰の場として人が集い隆盛したが、
当該記録も明治初年の大火で滅失し、詳細な村落沿革は誰も知る由がない。
昭和中期から続いた山間集落の離村の波は、町内でも殊更山深い地区にも届き
昭和60年廃村となった。
通いの元住民が耕作や竹林保全を行っているようで、
八幡社の境内も定期的に草刈り保全されている印象が見てとれる。
宗教的な伝統文化は現代でも継承されている。
千本突き、花笠踊り、槍踊り、刀踊り等の様々な伝統舞踊と民間歌舞伎
通称『開谷踊り』『開谷舞諸作事』は町指定無形文化財に指定されているものだ。
開谷踊りは昭和5年頃から40年以上公の場で踊られておらず、
集落の過疎化・担い手の高齢化により衰微の一途を辿っていたが、
廃村後に「伝統舞踊を守ろう」という住民の意向から保存会が設立。
現在も南加積小学校の児童の協力の元で継承している。
8年前に元住民の高齢化を踏まえ映像として残すことで、
後世に舞踊を託すことにした。
DVDは元住民らの内々で渡ったようだが、
往年の開谷踊りの映像は下記で閲覧できる。(7:45~10:05)
集落内には分校は存在せず、麓の学舎への通学が常だった。
長距離であるため、保護者が子供たちと歩いている間に問題を提示して
勉学を補うといった文化も存在しており、その名残は上市町商店街にも
密やかに継承されている。
集落が消えゆく中、その文化は現代にも溶け込んで根付いていることが
感じ取れる集落だった。