前回の続き。
上市町中心地から東へ約15km。
剱岳早月尾根への登山拠点、馬場島はアウトドアフィールドとして栄え、
清流濯ぎ木陰揺蕩う夏になれば、キャンプ客や登山者の往来で賑わいを見せる。
そのすぐ手前に、町内最東端の山村集落がある。
伊折(いおり)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
地名の由来は町誌でも語られていないが、
世捨て人や尼僧が用いる、質素な草葺の小屋『庵(いおり・あん)』か。
実際に県南部の山間でも『庵谷』の地名が存在する。
どことなくそういった雰囲気を感じさせるところだ。
(PS.『折』は崩落地のこととされる。)
草分けは永禄9年(1566)、
木地屋(「きじや」。木目そのままの器類の作成を生業とした木工集団のこと。)の一団が
蓑輪(下流域の滑川市蓑輪)から現地へ移り住んだとされているが、
それより以前から居住していた者がいたと云われる。
真言宗行者の正善なる者が、松倉城落城(桃井尚常が斯波義将に大敗)の際に当地へ避け、
正善坊を創設したのが応永年間(1394~1427)。
半世紀以降の文明3年(1471)真宗に帰依して寺号を本誓寺として永きに鎮座し、
現在同名の寺が上市町中心部に所在している。
伊折
かつては90戸もあり、炭焼と出稼ぎが盛んであった
(『角川地名辞典』)
(PS.当時90戸450名が所在していたとある。)
日々の耕作と薪炭の搬出だけでなく、若者は通年麓へ出稼ぎに向かった。
今ですら中心地へ30分近くかかる道だ。昔はどれほど大変だっただろうか。
言わずもがなの豪雪地帯ではあるが、それ以上の問題が治水にあった。
集落と市街地を分断する早月川は国内屈指の急流河川であり、
この川を跨いで集落を行き来する伊折橋は、昭和半ばまで木造架設であり
時折豪雨により流出したと町誌で語られている。
山越えの林道が設けられていたので、完全な陸の孤島となることはなかったろうが
日々の暮らしで相当に困難を強いられたことと見える。
現在のコンクリート橋は昭和42年に着工し、3年を経て竣工したもので、
以後流出の懸念もなくなり、登山客や工事車両が日々利用している。
(PS.白萩東部小学校伊折分校の位置を追加。)
集落には小学校・中学校それぞれ分校が1つずつ存在した。
白萩東部小学校伊折分校は伊折巡回授業所(明治9年開校)を前進に創立。
100年近くに渡り集落の学童を支え、冬季分校を経て昭和53年閉校した。
昭和27年には白萩中学校伊折分校も校舎落成したが、昭和50年閉校となった。
(PS.閉校時には白萩中学校は上市中学校へ統合済み。)
近隣の蓬沢集落の中学生も当地へ通学して共に勉学に励んだ。
残存する『立山・剱岳遭難対策協議会』所有の土地のトラック置場は、
在りし日の白萩中学校伊折分校の講堂を用いたものである。
現在伊折には飲食店が1店舗経営するのみであり、当日は生憎営業外だった。
剱岳の登山でまた通ることがあれば、その時違った景色を見てみたいと思う。