前回の続き。
蓬沢集落から麓へ向かい、左右に分かれる道を右へ降りていくと
早月川河川敷に何某の採石場が見える。
その採石場の脇道の先に、鉄製の吊橋が対岸へ伸びている。
下田(げだ)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
集落の草分は平安後期の康治元年(1142)、信濃より移住してきた伍島勘兵衛なる者が
早月川の河原を拠点として開拓したのが始まりとされる。
当時この上には一戸の家もなく、早月川流域集落の最奥にあった。
以後400年以上、僅か6戸程の小さな百姓村として喧騒から外れていたが、
天正二年(1574)当地の山で金が発掘されたことが転機となる。
尤も当時は戦国時代、越中の支配は上杉・織田・豊臣と転々としており、
本腰を入れた採掘はなされず、農業の片手間に細々と掘られていた。
この地震で発生した土砂崩れは早月川の流勢を変えるほどであったとされ、
河川敷に開けた村落は度重なる水害を受けて、現在の地へ移動した。
時を同じくして金鉱業が隆盛、長屋が建ち並び一時300戸1000人余りが居住した。
この下田金山は元和年間(1615~1624)にピークを迎え、
越中七かね山(松倉・河原波・虎谷・下田の金、吉野・亀谷の銀、長棟の鉛)の一角として
百万石と謳われた加賀藩の財政を支えた。
その産出量は、地下深く佐渡金山まで繋がっていると語られるほどであったと云う。
元和以降になると鉱脈が枯渇して産出量が落ち込み、離村者も相次いだ。
開けた土地が乏しく、耕作も精々野菜畑がある程度だったので
金鉱業の収入が無くなったとなれば、とても数百人が暮らせる余裕がなかった。
加えて同時期に発生した延宝の飢饉も相まって急速に人口が激減する。
明治から昭和にかけて幾度か金の採掘が行われたが、
いずれも採算が合わず長続きはしなかった。
高度経済成長以後、それでも田畑を開墾して15戸が暮らしていたが、
隣の蓬沢集落から引かれた農業用水路が
昭和44年に水害に見舞われ、耕作地が大打撃を受ける。(昭和44年8月豪雨)
この被害から立て直す余裕が集落には既に残っておらず、昭和46年廃村となった。
現在は元住民により構成される『下田金山ふるさと村』主導の元で
集落・坑口の維持管理が年に数度行われている。
往年の坑口は次々と崩れて山へ戻っていったものの、僅かに残存しており
地元小学生の校外学習の場として用いられ、余生を過ごしている。
他にも往年の民家を立て直して、元住民が宿泊できるセカンドハウスが並び、
ある方は一年の大部分を当地で暮らすなど、積極的に維持管理されている。
クマの足跡も見える当地に住まうには苦労もあろうが、その熱意に感銘を受ける。
坑道奥までは残念ながらいつしか閉塞してしまっているが、
また開通する日を待っているかのようだった。
栄枯盛衰、かつての栄華の風は過ぎ去ってしまったが
人の熱意、情熱、夢、後世へ残したいもの、伝えたいものが詰まった集落だった。