前回の続き。
中村集落を離れ、一旦道を戻る。
春から夏の間、暫く工事中で通行止めになっていた
分岐の道を進むと、程なく対岸にダムが見えてくる。
千石(せんごく)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
地名の由来は、集落南東の千石川と小又川の出合に豪家の娘が豆を植えたところ、
天にも届く大樹となり、1000石(約18万リットル)の豆が生った伝説から。
木は太鼓の胴に加工され、福井県永平寺の寺宝とされているものだと伝えられている。
また山岳奥地を表す『仙国』に由来する別説もある。
仙の国にも近しい雰囲気が漂う、山深くの地だ。
草分けは判然としないが、真言山伏によって開村されたと伝えられており、
永祚元年(989)の書物が山伏の家から発見されている。
現在、往年の家々は湖底に沈み跡形もない。
千石川が属する上市川水系は近くの早月川と比肩する急流河川であり、
一たび雨が降れば濁流になり、上市川流域集落は特に多くの水害に見舞われていた。
戦後15年足らずで、残っているだけでも10回以上の洪水が記録されている。
昭和44年夏、北陸を過去50年間最大の豪雨が襲う。昭和44年8月豪雨
河川の氾濫・道路の冠水が連発し、県内被害額は120億円相当に届いた。
上市川流域も相当に被害が大きく、町は災害の再発を防ぐため
既に4年前に造られた上市川ダムの上流に、更なる第二ダム建設計画を掲げた。
これが上市川第二ダムである。総工費156億円、着工から11年を経て竣工した。
当時12戸の集落の大部分がダム湖に沈むことから
町と住民で協議が行われ、町の補償の上で全戸離村となった。
『村の記憶』によると昭和54年廃村とされる。
さて、千石にはもう1つ逸話がある。それについても触れたい。
隕鉄とは鉄やニッケルを主成分とする隕石のこと。
旧白萩村は昭和29(1954)年までこの付近を包括していた村で、
千石集落の更に上流で拾われた石が隕鉄と判明した。これが白萩隕鉄である。
ロシア皇帝の秘宝 隕鉄剣に感銘を受けた榎本は、白萩隕鉄を持主から買い取って
刀工に長刀2振、短刀3振を製作させた。
この所謂『流星刀(Meteorite Sword)』は、長刀1振が皇太子(大正天皇)に献上され、
もう片方は東京農業大学へ寄贈された。
短刀は1本戦時中に行方不明になったらしいが、残された2振は現在
榎本ゆかりの地小樽龍宮神社と、富山市科学博物館にそれぞれ保管されており
東農大と博物館では展示会も催されている。
市博物館では去年9月に展示会があったが、残念ながら都合が合わなかった。
ここ数年は毎年開催されているので、次回に追記したい。
当時の住民は『寂しいが時勢、移る所も住めば都』と言ったとのこと。
現在はオートキャンプ場か里山への登山客がたまに来るらしいが
ダムの底に眠る往年の暮らしが偲ばれる地だった。