前回の続き。
千石集落へ訪れてから数ヶ月が経過していた集落探訪の再開。
今回は千石へ行く道中の廃集落から開始する。
稲村(いなむら)集落。
現在の世帯数1戸、人口1名。(上市町H27住民登録人口)
集落西方に城山があるが、今から500年近く前に稲村城があった。
鎌倉時代に相模国で栄えた土肥氏から分家した越中土肥氏の一族、
土肥源七郎政重の居城であり、その城下に開けたのが集落の起源とされている。
(落城は永禄12年~天正年間とされる。)
草分けの道林次郎右衛門なる者が相模の出身で、馴染みある鎌倉市稲村ヶ崎と
似た地形であったのが地名の由来。(『白萩小史』)
鎌倉は現在こそ賑やかな観光地だが、60年近く前は緑茂る豊かな山が多くあった。
明治5年に37戸を数えた家々も、今では取り払われるか朽ちるかして倒壊している。
集落奥の方ではなく、入口の比較的新しい家は人の出入りもごく最近のようで、
いずれお話を伺いたい限りである。
その頃にはこの建物も綺麗に残存していたようだが、ここ数年間で棟が倒壊したのか
柱が雨に打たれ無残な姿を晒していた。
村社は神明社。
社殿は既に片付けられ、神額が取り外され立てかけられていた。
社殿跡には『平成十六年十月三十一日』と刻まれた碑が残されている。
維持管理が困難になった已む無しの結果か。
鳥居横の碑には『道林梅次郎』と読める碑が残されている。
草分け一族の何某のものだろうか。年代は風化して読み辛い。
集落下方には昭和39(1964)年に竣工した上市川ダムが青々とした水を湛えている。
上流の千石と違い、こちらは家々が高台に建てられたため水没は免れた。
カモが数羽泳いでいるのを眺め、ふと振り向くとカモシカが走り去る姿が見えた。
次はクマか、イノシシか。恐恐として足早に車に戻ることにした。