(1/19加筆修正)
某日。
集落探訪の資料集めで昭和期の地図を眺めていた所、
ふと「あるもの」に目が惹かれた。
錦繍温泉。
聞き馴染みがない名だ。
そもそも黒部奥山に特別詳しいわけではないのだが、
黒部峡谷と言えば鐘釣、名剣、黒薙、阿曽原、祖母谷…と温泉好きなら
良く聞く有名所が軒を連ねている。
しかし鐘釣温泉からすぐ近くにこんな名前の温泉があったとは、聞いたことがない。
気になりGo●gleやSNSで検索をかけても、殆ど情報がヒットしない。
殆どの内容が「錦秋の黒部峡谷の絶景」という関係のないものばかりだったが
ある程度拾えた限りで当該温泉の内容を纏めておく。
錦繍温泉の概要については次のように記されている。
錦繍關
宇奈月驛より約一四粁五
錦繍温泉
此附近にあり、収容人員四五十名自炊部がある。
また、開湯当初には新鐘釣温泉とも呼ばれていた。
鐘釣温泉の下流には新鐘釣温泉があった。
(略)
錦繍温泉と呼ばれるようになった。
(『黒部奥山と扇状地の歴史』)
鉄道省発行『温泉案内』(昭和6年版)では、黒部峡谷の諸温泉も粒さに記されている。
その中に錦繍温泉の記述もある。
黒薙から一〇粁、途中猫又まで日電の軌道便がある徒歩容易
黒薙から道を二流の合流點まで引返し、黒部川に沿うて行き猫又を
過ぎ去れば梵鐘の形をする東鐘釣山が現れる。
その山麓に錦繍温泉がある。こゝは以前新鐘釣といつた所で特に溪谷が
美しい、浴舎は黒部電鐡(母体は日本電力)経営のものがあつて
四、五十人は泊れる、宿泊料二圓。
(『温泉案内』)
開湯時期は判然としないが黒薙温泉の開湯(1868)よりは新しく、
元は個人経営だったが災害の憂目に遭い、後々日本電力が引き継いでいる。
舟見町(現入善町舟見)の高畠栄次郎がこれを経営していたが、
明治四十五年の洪水で流出した。
大正五年魚津町の三和竹二が営業を再開し、
(略)
その後、日本電力株式会社に買収され、やがて廃湯となった。
(『黒部奥山と扇状地の歴史』)
廃湯の直接的原因は、災害による流出であることが明らかとなっている。
明治45年の洪水に始まり、以降何度も自然災害に見舞われてきた。
黒部峡谷は雪崩や土砂崩れの事故が度々起こることで知られ、
とりわけ有名なものでは昭和13(1938)年12月27日に発生した事故が挙げられよう。
大規模な表層雪崩『ホウ雪崩』が発生、黒部川第三発電所の隧道工事を施工していた
日本電力の木造4階建宿舎に直撃、雪崩の爆風で対岸600m先にある奥鐘山の岩壁まで
宿舎の上半分が吹き飛ばされ102名の内84名が死亡、生存者僅か18名の大災害である。
(雪崩の恐ろしさを知りたいなら『高熱隧道』を読もう。)
錦繍温泉も例外でなく、昭和6(1931)年2月16日に、
『錦繍温泉小屋番人が、温泉付近を襲った雪崩により死亡』の記録が残されている。
そして北陸地方整備局の『砂防事業の再評価説明資料』によると、
昭和19年7月(1944年)不帰谷で土石流が発生し、本川合流点付近にあった
錦繍温泉が埋没・流出し、復旧不可能となる。
(北陸地方整備局『砂防事業の再評価説明資料』)
災害で流出してしまい、日本電力は復旧見込み無しとして廃湯とした。
その後暫くして再び個人が小屋を建てて経営を図ろうとしたようだが、
昭和三十一年西江多喜男(美山温泉美山荘の主人?)が旅館やバンガローを建て
再び営業をはじめたが、昭和三十三年の不帰谷の土石流のあとの
鉄砲水で、すべてが流出してしまった。
(『黒部奥山と扇状地の歴史』)
たった2年で再び廃湯。その際に元湯は完全に埋まってしまい、
不帰谷の出合の河原に露天風呂があり、これが新鐘釣温泉と密かに呼ばれているが
これも徐々に土砂が下がり、埋まりつつあるらしいとのことだ。
最近立山に更に手を加え、開発を進める動きがあるとの話があった。
都合良くバスやケーブルカーを享受して置きながら文句を言うのも筋違いだが、
やはり無粋なものだと辟易せざるを得ない。
いつか黒部峡谷も観光発展のために、再開発される日が来るのだろうか。
その時にはこの温泉も発掘されるだろうか。
興味のある反面、黒部の深山の傍らでそっとしておきたいとも思うのであった。
おわり。