アウトドアと飯のあれ

神奈川→富山在住のアウトドアと飯と旅行のあーだこーだ

2020年1月16日 上市町⑫骨原集落

前回の続き。

 

釈泉寺から少し下り、分岐を曲がり坂道を上がる。

家々の間を縫うように急斜面を駆け上がると、左手に集落が見えてくる。

 

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現行。

骨原(こつはら)集落。

現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)

 

東種(ひがしたね)は2548(上市町H30住民登録人口)の山間集落で、骨原はその小字。

近隣に西種(にしたね)集落があり、しばしば包括して地域と呼ばれる。

山の傾斜上に走る窪地のことを『タニ』と呼び、種はこれの転訛したものとされる。

 

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集落内部。

平成25年上市町住民登録では世帯数0戸人口0名の無住集落とされているが

最新の住宅地図では3戸の記載がある。雪仕舞も割と最近のもののように見える。

 

名の響きからはどことなく妖し気な雰囲気を連想させるが、

新川郡見取絵圖』では小面原(こづらはら)と記されており、

 いつしかこれが縮まって今の呼び名になったと思われる。狭小の平坦地の意か。

 

他説では山岳語のコットーに由来するともされている。

これは早乙女岳北方『コット谷』と同じく、「谷間の細長い窪地」を指した

『クタ』や『ウトー』と同義である。

また近隣集落から大岩へ抜ける際の峠から、クボトが転訛したともされる。(『白萩小史』)

 

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集落内部。

ちなみに『ウトウ』とはアイヌ語で『突起』を指し、柳田國男は著書にて

 

ヤゲンは語のままに薬研のこと、久保を利用した緩傾斜の坂であったが

ゆえに、両側が高かったからの命名に違いない。

古くはこういう地形をウトウ坂と呼んだものが多い。

                                                                            (柳田國男『地名の研究』)

と触れ、窪地の坂をウトウとしたことから、

このウトウとコットーに何らかの関係性が伺えそうだが憶測の域を出ない。

 

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昭和30年代の骨原。

集落の起源は1850~60年頃と推定される。草分けは黒田次郎九郎

約170年前、戦乱を避け流浪した山伏や武者の子孫達が

小又川西方うしろ谷に暮らしていたが、平和になると麓に下り

開村したのが現在の東種で、それから間も無く枝村として分化したものと思われる。

 

無量寺(現舟橋村に所在)縁起では次のように語られているらしいが定かではない。

 

承元元年,夢告によって千石村の平井伝蔵(保昌の末孫)と能登国松戸で

阿弥陀仏の立像を得て越中に向かった。その折,親鸞上人と六渡寺の

渡船に乗り合わせ,法談にあって弟子となり改宗したと伝えられる。

はじめ千石にあったが,火災にかかり,教化の都合で東種の骨原に移り,

第7世了空(応永2年頃)の時に松田村舟橋)に転じた。

明徳2年,無量寺と寺号を公称した。

                                                                               (『角川地名大辞典』)

 

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集落内部。

西方は浅生(あそ)を通じて大岩山日石寺と通じ、かつて集落南方にある高峰山からは

大辻山・早乙女岳・大日岳を経由して立山室堂へ続く長大な立山修験道が存在した。

骨原も経由地として人の往来も見えたと伺える。

 

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集落上部 白山社。

村社は白山社

草分けの黒田次郎九郎は加賀の山法師で、白山の前鐘を持ってきて

当地の御神体としたとある。

釘を使わない社殿らしいが、訪問時は雪仕舞かシートで囲われていた。

 

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風鈴?

麓の東種はまだ多くの人が住み、スノーハイク等を楽しむ人がたまに見えるが

山上は寒風吹き乱れ、どこか寂し気に木々が揺れていた。

来た道を戻り、また別の集落へ向かう。