前回の続き。
釈泉寺から少し下り、分岐を曲がり坂道を上がる。
家々の間を縫うように急斜面を駆け上がると、左手に集落が見えてくる。
骨原(こつはら)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
東種(ひがしたね)は25戸48名(上市町H30住民登録人口)の山間集落で、骨原はその小字。
近隣に西種(にしたね)集落があり、しばしば包括して種地域と呼ばれる。
山の傾斜上に走る窪地のことを『タニ』と呼び、種はこれの転訛したものとされる。
平成25年上市町住民登録では世帯数0戸人口0名の無住集落とされているが
最新の住宅地図では3戸の記載がある。雪仕舞も割と最近のもののように見える。
名の響きからはどことなく妖し気な雰囲気を連想させるが、
『新川郡見取絵圖』では小面原(こづらはら)と記されており、
いつしかこれが縮まって今の呼び名になったと思われる。狭小の平坦地の意か。
他説では山岳語のコットーに由来するともされている。
これは早乙女岳北方『コット谷』と同じく、「谷間の細長い窪地」を指した
『クタ』や『ウトー』と同義である。
また近隣集落から大岩へ抜ける際の峠から、クボトが転訛したともされる。(『白萩小史』)
ちなみに『ウトウ』とはアイヌ語で『突起』を指し、柳田國男は著書にて
ヤゲンは語のままに薬研のこと、久保を利用した緩傾斜の坂であったが
ゆえに、両側が高かったからの命名に違いない。
古くはこういう地形をウトウ坂と呼んだものが多い。
(柳田國男『地名の研究』)
と触れ、窪地の坂をウトウとしたことから、
このウトウとコットーに何らかの関係性が伺えそうだが憶測の域を出ない。
集落の起源は1850~60年頃と推定される。草分けは黒田次郎九郎。
約170年前、戦乱を避け流浪した山伏や武者の子孫達が
小又川西方うしろ谷に暮らしていたが、平和になると麓に下り
開村したのが現在の東種で、それから間も無く枝村として分化したものと思われる。
無量寺(現舟橋村に所在)縁起では次のように語られているらしいが定かではない。
承元元年,夢告によって千石村の平井伝蔵(保昌の末孫)と能登国松戸で
阿弥陀仏の立像を得て越中に向かった。その折,親鸞上人と六渡寺の
渡船に乗り合わせ,法談にあって弟子となり改宗したと伝えられる。
はじめ千石にあったが,火災にかかり,教化の都合で東種の骨原に移り,
第7世了空(応永2年頃)の時に松田村(舟橋)に転じた。
明徳2年,無量寺と寺号を公称した。
(『角川地名大辞典』)
西方は浅生(あそ)を通じて大岩山日石寺と通じ、かつて集落南方にある高峰山からは
大辻山・早乙女岳・大日岳を経由して立山室堂へ続く長大な立山修験道が存在した。
骨原も経由地として人の往来も見えたと伺える。
村社は白山社。
草分けの黒田次郎九郎は加賀の山法師で、白山の前鐘を持ってきて
当地の御神体としたとある。
釘を使わない社殿らしいが、訪問時は雪仕舞かシートで囲われていた。
麓の東種はまだ多くの人が住み、スノーハイク等を楽しむ人がたまに見えるが
山上は寒風吹き乱れ、どこか寂し気に木々が揺れていた。
来た道を戻り、また別の集落へ向かう。