前回の続き。
大沢から曲折する車道を更に進むこと凡そ2km。
真新しい舗装路の先に耕作の跡地が広がる。
中ノ又(なかのまた)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
路盤状況が不安で念の為歩いてきたが、存外に舗装が真新しい。
ここ最近の内に敷かれたようだ。集落奥の釜池の観光のためと思われる。
口碑によると永禄年間(1558~1569)弓庄館城の分流林五右衛門が開村したとされる。
また村社跡地の石碑には松本善治なるものが草分けとなり村社を創建したのが
宝徳三(1451)年としている。
(『神社明細帳』では中浅生(なかあそ)から移住してきた善兵衛と申す者が草分けとある。)
地名の由来は大沢~浅生(あそ)の中間地点にあることから。
『村の記憶』によると昭和46年廃村。
享保年間から離村まで殆ど戸数に変わりなく4~5戸で推移していた、町内最小集落の1つ。
全戸親類で、年の半分が雪に埋まる山中、肩寄せ合いながら暮らしていたそうだ。
主だった産業は林業・炭焼。
稲作は寒冷地であまり豊作にならなかったが、土地柄寒暖差が大きく、
品質はなかなかのものが収穫できたとのこと。
離村を決定付けたのは冬期通学の困難さによるものとされる。
4年生まで大岩小学校大沢冬期分教場(昭和43年閉校)へと通学したが、
それも片道2km近く、降雪時は大人総出で毎朝雪踏みをして登下校を支えた。
5・6年生は麓の大岩小学校(1983年閉校)まで5km以上の通学路を日々往復した。
更に中学、高校に至っては往復4時間余りかかったというから驚きである。
小学校入学を間近に控えた子連れが麓へ下りたのを切欠に、全戸離村。
屋敷跡の階段は落葉に埋もれ、その年月を繁々と語っているかのようだった。
跡地には石碑と僅かな往時の遺物が残されている。
ここから先の道は荒れ果て、半ば登山道のようになっているそうだ。
車を引き返して麓へ降り、回り道することにした。