市街地から車で30km以上。
県道360号線富山岐阜県境すぐ傍の草葉の影に、集落跡地が見える。
加賀沢(かがさわ)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H29住民登録人口)
起源は判然としないが天正四(1576)年上杉謙信の軍が飛騨侵攻の際に当村を通り
小豆津(岐阜県宮川町小豆沢)へ攻め入ったとされ、戦国期には見えた地名だったことから
450年前には村落を形成していたと考えられる。
元は西加賀沢と呼んだ。
対岸には東加賀沢集落(現:岐阜県宮川町加賀沢)があり、東西で管轄県が異なっていた。
地名由来は、『加賀澤村と杉谷』では加賀藩国境に位置するからとし、
『宮川村誌』は東加賀沢を蘿藦(ががいも)が良く茂った沼地から
ガガイモ沢が転訛したと伝えている。
また柳田國男は『地名の研究』において、津軽方言で芝草をカガと呼ぶとし
当地や宮城県登米市加賀野を例に挙げ、ひいては加賀藩の語源であると推定している。
廃村は平成元年(昭和64年)。
昭和5年11戸80名を数えたが、30年代から急激に過疎化が進み昭和50年1戸2名。
最後の定住者が亡くなられて現在に至る。
今も通いの人が夏期に訪れ、友釣り用の種鮎を販売しているそうだ。
村社は白山宮。元は瓦葺き屋根の大きな拝殿が佇んでいたそうだが
昭和50年初頭に解体されてコンクリート製の御堂となった。
地元ではお宮さんと呼ばれ、子供は境内で鬼ごっこや隠れんぼをして日々を過ごした。
明治45年、後の猪谷小学校加賀沢分校設立。
市内最南端の当地で長らく学童を支え、昭和25年生徒数30名を抱えたが
離村が深刻化した昭和39年4月1日に廃校となった。
分校は解体、跡地は植林され往時の面影はない。
街道沿いから眺めも良く、地域の人も親しみやすい分校だったようだ。
写真の佇まいは50年以上当地を支えた威風堂々とした佇まいを感じさせる。
東加賀沢からも当地へ通学する学童がいたらしい。
神通川上流宮川は昔から鮎やマスの漁業が盛んで、
地方史著者も少年時代専ら鮎を捕り、鮎の塩焼きが『村の味』だったと望郷している。
他にも川へ飛び込んだり泳ぎを楽しんだことを振り返っている。
僕の家付近になると神通川は暴れ川になり、とても泳げたものでないので
子供の頃のそういった思い出話に羨望を感じる。
雪の少ない今冬でも白く化粧した山々が眼前に見渡せる。
今では富山飛騨間の道の傍らに、集落があったことを知る者も疎らだろうが
寒風吹く山間で、当時の暮らしぶりを静々と偲んだ。