アウトドアと飯のあれ

神奈川→富山在住のアウトドアと飯と旅行のあーだこーだ

2020年1月31日 富山市:旧細入村①加賀沢集落

市街地から車で30km以上。

県道360号線富山岐阜県境すぐ傍の草葉の影に、集落跡地が見える。

 

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現行。

加賀沢(かがさわ)集落。

現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H29住民登録人口)

 

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石垣。

起源は判然としないが天正(1576)年上杉謙信の軍が飛騨侵攻の際に当村を通り

小豆津(岐阜県宮川町小豆沢)へ攻め入ったとされ、戦国期には見えた地名だったことから

450年前には村落を形成していたと考えられる。

 

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西加賀沢集落と東加賀沢(昭和39年廃村)集落。

元は西加賀沢と呼んだ。

対岸には東加賀沢集落(現:岐阜県宮川町加賀沢)があり、東西で管轄県が異なっていた。

 

地名由来は、『加賀澤村と杉谷』では加賀藩国境に位置するからとし、

『宮川村誌』は東加賀沢を蘿藦(ががいも)が良く茂った沼地から

ガガイモ沢が転訛したと伝えている。

 

また柳田國男は『地名の研究』において、津軽方言で芝草をカガと呼ぶとし

当地や宮城県登米市加賀野を例に挙げ、ひいては加賀藩の語源であると推定している。

 

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今も残る家屋。夏期には種鮎を販売しているそうだ。

廃村は平成元(昭和64年)

昭和5年11戸80名を数えたが、30年代から急激に過疎化が進み昭和50年1戸2名。

最後の定住者が亡くなられて現在に至る。

今も通いの人が夏期に訪れ、友釣り用の種鮎を販売しているそうだ。

 

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村社 白山宮。

村社は白山宮。元は瓦葺き屋根の大きな拝殿が佇んでいたそうだが

昭和50年初頭に解体されてコンクリート製の御堂となった。

地元ではお宮さんと呼ばれ、子供は境内で鬼ごっこや隠れんぼをして日々を過ごした。

 

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分校跡地?

明治45年、後の猪谷小学校加賀沢分校設立。

市内最南端の当地で長らく学童を支え、昭和25年生徒数30名を抱えたが

離村が深刻化した昭和39年4月1日に廃校となった。

分校は解体、跡地は植林され往時の面影はない。

 

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廃校と決定した加賀沢分校。

街道沿いから眺めも良く、地域の人も親しみやすい分校だったようだ。

写真の佇まいは50年以上当地を支えた威風堂々とした佇まいを感じさせる。

東加賀沢からも当地へ通学する学童がいたらしい。

 

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昭和50年代の西加賀沢。

神通川上流宮川は昔から鮎やマスの漁業が盛んで、

地方史著者も少年時代専ら鮎を捕り、鮎の塩焼きが『村の味』だったと望郷している。

他にも川へ飛び込んだり泳ぎを楽しんだことを振り返っている。

 

僕の家付近になると神通川は暴れ川になり、とても泳げたものでないので

子供の頃のそういった思い出話に羨望を感じる。

 

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東加賀沢上の鉄塔管理道?

雪の少ない今冬でも白く化粧した山々が眼前に見渡せる。

今では富山飛騨間の道の傍らに、集落があったことを知る者も疎らだろうが

寒風吹く山間で、当時の暮らしぶりを静々と偲んだ。