前回の続き。
笹津(ささづ)から『八百羅漢』の案内に従い左折、
神通川の流れを右手に曲折する道を走り暫くすると、石像群が見えてくる。
芦生(あしゅう)集落。
現在の世帯数1戸、人口2名。(富山市H31住民登録人口)
「あっしょ」とも呼ばれる。
起源は定かではないが白鳳年間(650~654)に塩を求めた者が訪れた言い伝えがあり、
元久元年(1204)真言宗法雲寺を創建したと楡原(にれはら)上行寺の由緒書に記される。
地名の由来は葦(アシ)が多生した地から。
今では葦は『ヨシ』と呼ばれ、8世紀初頭ネガティブな印象を持った名称を変更する
好字令公布の際に『悪し』に通じるので『良し』に変えられたと云われる。
現に近辺で吉野(よしの)集落があり、これは通説では葦(ヨシ)が多生するからとされるが
何故一方だけアシ、他方がヨシなのかは町史でも言及されていない。
両村落の成立年の差に関係すると推察すると、当地の由緒は相当古いと考えられる。
他説では塩が取れたことに由来するとある。
採掘された記録はないが『宝暦14年旧蹟調書』には集落内に『塩壁』があり、
高さ11間幅7間、晴天時には所々白い塩のような砂塊が噴出する砂岩層で
実際に舐めると塩味を感じたらしい。
南方川縁の岩壁にあったが、神二ダム建設によって消失してしまった。
「あっしょ」の呼び名にも通ずるものがある。
笹津から芦生に入る道沿いに、スーツや着物を着た夥しい石像の数々を目にする。
『ふれあい石像の里』は県内の実業家故古河睦雄氏が世界一の石像群名所を作ろうと
親しい友人や恩人を元にした、風変りな石像の数々をこの地に座したもので、
芦生にあるものだけで420体、全体で1200超にもなる。
対岸からも容易に判別できる、神通峡の珍名所の1つになっている。
明治5年20戸99名。
薪炭の製造、薙畑(=焼畑)の耕作を行ったが、背後の山が近く急傾斜な土地柄
耕作地は狭小なものだった。
現在は僅かな耕作地も殆ど全て放棄され、草葉の陰に隠れるように蹲っている。
村社は八幡宮。
伝承によると文政3年(1820)建立奉斎。紙垂は真新しく、手入れの程が伺えた。
物静かな集落を後にして、うねる道を南上していく。