八尾の奥地白木峰に端を発する野積川の流れに逆らい、
車1台がようやく通れる山道を南上していくこと数十分の山奥へ来た。
西松瀬(にしまつぜ)集落。
現在の世帯数1戸、人口不明。
起源は判然としないが元禄11年(1698)の調書に名があるので、
少なくとも江戸時代初期の成立と見られる。
元は猟師ヶ原発電所から野積川を挟んだ北方対岸に『平等(たいら)村』があったが
これと隣村が合併した際、既に対岸には松瀬(現東松瀬)があり『西』となったとされる。
松瀬とは古い絵図にもある通り、ここより奥の集落にはマツの樹がなかったため
『松末(まつすえ)』が転訛したと語られている。
他の集落と同じく、薙畑(焼畑)を主にして桑や楮の栽培、薪炭の製造を行ったとされる。
特に製紙は野積四谷(大長谷、野積、室牧、仁歩)の特産でその歴史は鎌倉時代まで遡り、
富山藩主前田利次の頃、藩の御用紙は多くが野積四谷で製造されていた。
ここで製造された上質紙の多くが売薬用紙に用いられ、売薬業で栄えた富山藩の財政を
影で支えていた。
明治5年13戸。大正~昭和の中頃までは14戸で推移した。
凡そ昭和40年頃から離村化が進み、昭和50年には全盛の半数以下となった。
平成中頃にはそれでも3戸の記載があったが、現在は1戸のみ住まわれているそうだ。
今でも薪ストーブの煙が上がる家屋には区長の方が住まわれており、
お話を伺うと「現在松瀬全体で3戸が暮らしている」とのこと。
当地では多い時では2m近く積もり、今年は雪が少なく助かっていると仰った。
雪国であることを忘れるような暖冬だが、豪雪時の苦労はいかなるものか。
集落内には広畑小学校松瀬分校があった。
昭和11年集落入口の木炭倉庫を転用して冬季分校を開校、1~3年生が通学していた。
28年には新校舎が建設され、当時20名程が当地へ通い学業に励んだと言う。
昭和49年廃校が決まり38年の歴史に幕を閉じ、その20年後には本校も廃校となった。
二階建の立派な校舎跡地は草が生い茂り、往時の記憶を掻き消さんとしている。
村社八幡社の由緒は不明だが、威風堂々たる立派な本殿が特徴的だった。
苔生した境内は意匠の新しい灯籠も相まってどこか明るい雰囲気を漂わせている。
当地は祖父(そふ)岳や夫婦山への道中にあるので春秋には登山客も訪れたり、
これから3月頃になると渓流釣りを楽しむ者も度々目にするそうだ。
薪の燃える香りが吹く集落を後にし、対岸の集落へと足を運ぶことにした。