前回の続き。
東松瀬(ひがしまつぜ)から、来た道を引き返す。
いくらも離れないうちに幅狭の三叉路だ。
赤石(あかいし)集落。
現在の世帯数4戸、人口6名。(富山市H31住民登録人口)
起源は判然としないが後述の話から、戦国時代には村落が成立していたと考えられる。
祖父岳など近くの山々の火山活動に依るものと思われる、
あずき色の安山岩が、畑や神社など至る所で見られたことから『赤石』となった。
生憎当日はそれらしい赤い石が見当たらなかったが、探せば見つかるだろうか。
戦国時代には小字池ノ上(集落南西部か)に天王村があったが、
祖父岳北西の小山が崩れ、人家が埋もれ天王村は壊滅して赤石村と合併した。
いつ頃かは定かでないが、貴船社の再建合祀が寛永18年(1642)と伝わっている。
祖父岳の麓に開けていることからか、集落内には洞窟や池がいくつも点在していた。
池は多くが溜池で、コイやフナが住み着いていたが現在では多くが土砂で埋没している。
かつて池が広がっていた頃、鴨等の鳥類が飛来して当地で泳ぐ様は
貴船神社近くの下埜池跡と呼ばれる場所がそうだと言う。
生憎冬場に行ったが、夏場に伺えば日本の原風景が広がっていることだろう。
昭和20年代半ばには疎開者含め38軒の家が建ち、200名以上がこの山奥で暮らしていた。
昭和32年の八尾町への町村合併を転機に、急速に過疎化が進む。
それでも40年代には24戸を数えたが、今では片手で数えられる程にまで減少した。
村社は貴船社。
集落中心の日当たりの良いところに建てられている。
昔は子供の喧騒も聞こえただろうと想像した。
森の中にもいくつか板倉や家屋が建っていたが、多くは半ば崩壊していたのが
雪深い山村に暮らすことの厳しさを感じさせていた。
同時に、厳しくもこの集落で暮らす人の力強さに感服する。
ここから先の桂原(かつらはら)へは長靴がないと、この時期行くのは難しそうだ。
また雪解け頃にすることとし、この日は図書館で郷土資料を読み漁って帰った。