前回の続き。
芦生(あしゅう)を後にして南上すると、間も無く道の両隣に家々が建ち並ぶ。
今生津(いもづ)集落。
現在の世帯数8戸、人口24名。(富山市H31住民登録人口)
起源は判然としないが承応4年(1655)に石高の記述があることから、
400年前には開村して耕作を行っていたのではないかと推察する。
近隣に笹津(ささづ)、寺津(てらづ)と『津』と付く地名が散見される。
『津』とは船着場があったことを示すとされている。
近代の道路整備、トラック導入がなされるまで神通川流域の物流の中心は水運だった。
17世紀の文献では『今津』で、生きるために必要な地から「生」を付けたと
県史研究会は推定しているが根拠に乏しく、また『今』の説明には触れていない。
また、柳田國男は自著で
しかしもし以上の事実をもって阿久津の「津」はすなわち船津を意味する
と解する者があれば誤りである。アクツは単に川添平地という義で
その地形がたまたま貨物人馬の積卸しに便であったに過ぎない。
(柳田國男『地名の研究』)
と語り、全国各地の津は必ずしも船着場の意味を先行するものでないとしている。
ここで神通川上流、岐阜の宮川町小豆沢に触れたい。
戦国時代『小豆津』と呼ばれ、単純に『小豆が取れた沢』で特段船着場の意はない。
また『宮川村誌』は東加賀沢(現宮川町加賀沢)をガガイモ沢の転訛としており
水系も同じくして地形・植生・風土も似たものと推定すると近いものを感じないだろうか。
また、近しい地形として和歌山十津川町に五百瀬(いもぜ)がある。
どちらにせよ、昔から富山から飛騨へと抜ける交通路があったことからか、
道には野仏が多く残されており、古くから信仰心の強い地であったと伺える。
芦生と共有の山林で薪炭材を伐採・製造したり薙畑(焼畑)を行っていた。
集落上部には芦生の枝村山平(さんでら)(昭和43年廃村)へ続く道があり、
傾斜地には棚田が広がっていた。
山川に覆われた芦生に比べて傾斜が緩く、その分耕作地が広く取れたのだろう。
今ではその耕作地も随分面積を狭め、戸数も両指の本数より減ってしまった。
村社は今生津神社。
由来不詳。本殿には八幡宮の額が飾ってある。かつては八幡宮で名前を変えただけか、
或いは昔は別の神社があり合祀したのか、いずれ再訪した際にはお話を伺いたい。
交通の多い対岸の41号線沿いに比べ、静かで長閑な所だ。
寒風に身を縮めながら、次の目的地へ向かう。