前回の続き。
1週間前にそれなりに雪が降り、赤石(あかいし)より奥は暫く進めそうにない。
先に麓にある廃集落跡地を散策してみる。
桐山(きりやま)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。
集落の起源は判然としないが200年程前に遡る。
南方の東葛坂(ひがしくずさか)の枝村で、文献には『切山』とあり
山林を切り開いたのが、いつしか字を変えたのだろう。
そのため八尾町の前身となった桐山村とは関わりがない。
かつて、八尾町内から野積四谷(大長谷、室牧、仁歩、野積)へ抜けるには
東新町(ひがししんまち)と東葛坂を繋ぐ桐山峠を越える以外の道がなかった。
特に大長谷から楢峠を経由して飛騨へと続く峠道(現国道471号線の一部)は
飛騨街道の間道(裏街道)として機能していたことから、当地も多くの通行人が行き来し、
急坂を登り詰めた峠で皆一服して賑わいを見せた。
いつしか桐山峠に幾つかの茶屋や駄菓子屋が立ち、村落を形成した。
天保2年(1831)初夏、富山城主前田公(利幹か)が藩内巡視の際に訪れて休憩したと残る。
慶応4年5戸21名。
明治26年野積新道が開通するとわざわざ峠道を使う者も乏しくなり、茶店も閑散とした。
そのため住民は早々に店を畳み、麓の西葛坂(にしくずさか)や東葛坂へ移り住んだ。
現在峠は日当たりを活かして耕作地が開かれ集落内に往時の面影を示す物は少ないが、
階段のある石積からはどことなく古い香りを漂わせる。
麓の聞名寺が一時期当地にあったとされ、ここで聞名寺の梵鐘が鋳造された折には
近隣の男女が参詣に訪れて大変賑わったと言う。
その頃に集落が形成されていたかは定かではないが、1770年頃町内で大火があり、
その際に梵鐘を打ち鳴らし続けたので亀裂が入り廃されたそうだ。
村社は秋葉社。
八尾町は水回りが悪く強風が吹く為、度々大火に見舞われ多くの人家が焼失した。
そのため五箇屋甚四郎が、自ら信心していた静岡の秋葉社を勧請するよう具申し
文政6年(1823)桐山峠に社祠を建立した。
文久2年(1862)の秋に暴風雨で倒壊し、暫く麓にあったが
明治23年の大火が甚四郎宅手前で鎮火したことから霊験新かさを崇められ
現在城ヶ山公園の展望台に遷座しているものである。
またこの神社に参拝する際、階段の横に、石垣に乗せられた大きな常夜燈を目にする。
これは東新町から峠への登り口に置かれていたもので、
かつては海からでも遠望でき、四方(よかた)の漁夫が灯を目印にしていた。
秋葉社の遷座の頃に共に移されたが、登り口には今も往時の石垣が残されている。
他にも麓の庚申通りの由来となった庚申様は、桐山の玄野家にあったもので
これを離村時に麓へ下して石祠に安置し今に至る。
明治に消えた集落の遺物は、100年以上経った現在も街並みの中に溶け込んでいる。
郷土史を元にそれを掘り出すのもまた面白い試みだった。