前回の続き。
居舟から凡そ4kmの、眺望の良い山道を歩く。
所々崩壊した砂利道を暫く進めば、耕作地や集落の跡が見えてくる。
深道(ふかどう)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)
今から約470年前、中世期末に近辺で砥石用の岩石が採掘され、
その際入山した人々により一村が結ばれたと言い伝えられている。
いつしか人家が増えて『深戸』と呼ばれ、今の呼び名となった。
村史は道(ドウ)とは砥石採掘により出来た洞穴のことと推定している。
また中国~北陸地方では沼や沢の多い湿潤地帯を『フケ』と呼んでいる。
各地で転訛して、「湫」「久手」「泓」と漢字が当て嵌められているが、
実際に現在も稲作が行われているところは、元はこのフケであったところが多い。
ほぼ畑作のみの高清水(こうしみず)や居舟とは異なり築堤して稲作を行ったこと、
比較的なだらかな斜面が広がり、沢水も豊富に流れていることから
その関係性が伺えそうだ。
無人化は昭和45年。
山田村の中でも最も東砺波郡に近い立地柄、井波町との交流が盛んだった。
当地周辺では石灰岩が産出された。
石灰は農業肥料として魚肥の1/10ほどの値段のため盛んに採掘され、
砺波平野の肥沃な田園地帯を支えていた。
明治40年代を全盛に、戦時中も工業用石灰の生産がされたが
昭和中期からは化学セメントが広まることで、石灰鉱山も閉ざされて山中に還った。
鍋谷小学校深道分校・山田中学校深道分校が集落の学童を支えた。
当日お会いした方の話によると、高清水・深道・居舟の子供達(中学生?)は
大きな学校行事がある際には、鍋谷までの道を1日がかりで下って
鍋谷小学校に宿泊し、麓の本校に向かったらしい。
深道から鍋谷までで片道6km弱。山村に暮らす厳しさが垣間見える話だった。
村社は牛嶽社。
分校跡地すぐ左裏手に鎮座していたらしいが、遺構は感じられなかった。
航空写真からは往時の子供達の喧噪が偲ばれる。
今でも廃集落の割には小綺麗に草刈りがなされており、牛岳登山口の1つにもなっている。
ブナ林を掻き分けるコースは是非秋口に訪れたいところだ。
春の長閑な陽光を味わいながら、更に奥地へと足を運ぶことにした。