やあ。
今更ながら、2022年は「泊」に重きを置いた年だったと思います。
つまり山泊を出来る限り多くしました。
前年が10回程だったところを、倍に増加。
日数が増えれば良いというものでもないですが、
山の多様な要素を感じるなら泊まりが一番です。
その中で特に印象深い山行は、9月半ばにお隣の新潟へ行った際。
ということで今回は苗場山へ行ってきた話。
「苗場の山奥に温泉が湧いてるんですよ。」どこでそんな話を耳にしただろうか。
苗場と言えば登山に馴染みのない人でも聞き覚えがあると思う。
そしてその麓には切明や湯沢、貝掛や法師等有名どころが軒を連ねるが
更に奥にある温泉とはどのような所か。
今回訪れる赤湯温泉は、お世辞にもアクセスが良いとはいい難い。
車でダート路を30分程走り、そこから歩きで1時間半。
林道を歩いていると電力関係者と擦れ違った。爆竹の音。お仕事お疲れ様です。
見晴らしの良い峠を越えて、山腹を横這う道に出る。
ブナハリタケ、トチの実が沢山実った豊かな森は上信越の様々な生き物を育む揺り籠。
実際にこの辺りはクマも多く、今回訪れる赤湯温泉もその昔猟師が発見したそうだ。
急な斜面を谷へ降りると突然人工物が現れる。
橋を渡ると規模は大きくはないが、よく手入れのされたテン場へ到着だ。
手早く設営して適当なものを持って先へ進もう。
第二の橋を渡ると人も掃けた朝方、ターコイズブルーを流す清津川のほとりに
茶褐色の温泉が湧き出ているのが見える。あれが赤湯温泉だ。
僕の山行記録で頻出する木暮理太郎が当地に訪れていたのを知ったのは
愚かにも後日調べものをしていた時のことだった。
温泉は自然のままで浴するのが本来の使命にかなっている。(中略)
苗場山下の赤湯は、河原と海渚との相違はあるが、別府の海地獄と同じように
地を掘ってそこに湛えて湯に浸る最も原始的な方法によっている。
(木暮理太郎『四十年前の袋田の瀑』)
明治30年には小屋が建てられ湯治客を迎え入れていた赤湯温泉。
大正初年には林道も開通し、湯治の傍ら苗場へ登る基地として機能していたらしい。
木暮理太郎が訪れたのもその頃で、彼らは当時唯一開かれていた
赤倉山経由の登山道にて苗場の頂へ至った。
幾度かの経営変更を経て、今の山口館の家系が赤湯を買い受けると
暫く後の昭和6年(1931)、猟の親方と共に小屋主の名前を冠した昌次新道を開通。
これが今回のルートで、最短で赤湯から苗場山へ達する。
と、早々とこの道の経緯を説明したわけだが
丁寧に刈り払いされて下草も目立たず瑞々しい良いルートだ。
手前勝手なイメージだが上信越と言えば「一にも二にも笹」という印象が強い。
その浅薄な第一印象は恐らく国境近辺の藪山から来ているのだろう、と結論付けると
針葉樹の挟間から、まさにその辺りの盟主とも呼べる佐武流山が見えてくる。
来年には麓の切明温泉も訪ねたい。その折に目指したい山の1つ。
また右に目を渡せば、1300mの高さに広がる田代湖の背後には
新潟・福島の岳人を魅了する山嶺が軒を連ねている。
背後には訪れたことがない谷川連峰も滝雲を交えてご入場だ。
僕の行く山からは大概見えることがないので空白地帯。
長い新潟を挟むので遠のいていたが、アクセスは悪くないと分かったので今年の候補。
晴天の直射は暑いが、木蔭を通るので耐え切れない程でもない。
そう言えば今年はあまり茹だる暑さがなかった気がする。
暑さの本番には、カメラを壊したか沢に行っていたからだろうか。
本当に…カメラは大事に。
頂上直下は笹の斜面と少しの鎖場を登る。
ちなみに赤湯は意外にオープンが早く、GW頃には小屋明けを行っているらしい。
雪見・温泉・登山…想像するだけで垂涎物なプランだが、
その時期はこの辺に張り出した雪庇で昌次新道は通行不可。
前述の赤倉山経由がセオリーらしい。それはそれでまた通る理由が出来た。
眼前に広がる苗の広場。
名の由来となった山頂台地に出ると広々とした草原と白木の小径、
幼年期に見たトスカーナの絵画のようだ。
何という広い頂上であろう、北アルプスの五色ヶ原でも之には及ばない。
絶頂と思われる方を眺めても、真白な大きな櫛形の線が
かすかに霧の中に浮んでいるだけで、行けども行けどもはてしがない。
山頂に至る道を進めば、行楽日和の昼前時、百の山の一峰。
流石に大勢の登山客で賑わいを見せていた。
片手程度しかすれ違わなかった赤湯からの道とは対照的。
富山にも風衝草原はあるが規模が段違いだ。そりゃ鈴木牧之も感嘆するわ。
数えてみると駐車場から意外とかかったが、苗場山頂に到着したのは4時間半程。
近くの小屋で一服して暫し景色を堪能することにした。
次回へ続く。