興隆衰微。
前回の続き。
集落を後にし、県道に降りて車を走らせました。
「なぜこの辺りに廃村集落が多数あるのでしょうか」
「なぜ廃村となったのでしょうか」。
この謎を紐解く旅へ向かいましょう。
本題に入る前に、今回のお話に関わってくるものを紹介します。それがさくら湖です。
山域の麓に広がる湖ですが、元から形成されていたものではありません。
この山村の集落は一度の流入によって形作られたものではなく、
武士の落人であったり、はたまた秩父や近隣の流れが居ついたりと集落ごとに年代差があり、
いつの日か近隣集落をまとめて浦山地区と呼ばれるようになりました。
知る人ぞ知る武陵桃源🍑として、語り継がれていた浦山地区が大きく注目される切欠は
江戸時代(1810-1830)に編纂された武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」。
各村に提出させた記録と、フィールドワークにより蓄積された土地に関わる事柄を記した風土記が
いわゆるガイドブック的な役割を持ち、以後浦山地区が郷土研究者の興味を惹く道筋を作りました。
安政の世に894名の人口を有していた浦山地区は、大正時代から人口を増加させ
昭和8年には1253名、297世帯が暮らす程に拡大しました。
集落全体で小学校と分校合わせて2校、中学校が1校存在し、
中学校の卒業生も昭和40年代まで毎年60~90名を輩出していました。
この規模の山村で2クラス余りが卒業する活気ある村だったのです。🏫
転機は昭和40年代、国内で第一次産業が衰退し、第三次産業への就業人口が増加します。
林業や養蚕を生業としていた浦山地区も例外ではなく、多くの若者や世帯が
少しずつ山を離れ、或いは出稼ぎに行くことになったのでしょう。
首都圏への人口流出とサービス業への職種転換が起こりました。
一方同時期、都市部の急激な人口増加による水需要が深刻な問題となります。
もはや関東最大の利根川水系では及ばない程に悪化した水不足は、荒川水系である浦山地区にも
人々の生活を支える貯水ダムの建設を進める風を吹かせるようになりました。
急峻なV字谷に巨大な堤を作る事は並大抵の工事ではなく、28年の歳月をかけて完工。
ダム湖のさくら湖に水没する集落が多数出ることになりました。
(Mi、N、Y、W。特にYはMo、O、H、Tを内包した、比較的大きな集落だった。)
昭和の終わりに着工し、僕が子供の頃まで続く一大プロジェクトの間にも、
人口流出は増加の一途を辿り、40年代に18あった集落は
今もさくら湖に沈んでいるものも含め、完工時には8まで縮小することになり
現在に至っては残っている集落が片手の指までに数を減らしました。
今回伺ったC集落も、完工後新たに廃村となった集落です。
当時賑わいを見せたであろう中学校も建設中の昭和60年にその歴史に幕を閉じます。
前年度の卒業生は僅か6名でした。
浦山地区全体の人口も現在で200名を割り、最盛期の1/6に満たない現状です。
都市部への人口流出やダム湖の建設は、誰かが悪いという話では決してありません。
歴史的価値がある集落がいくつも湖に沈んだことは、喜ばしい話ではありませんが、
特に不当な扱いを受けたわけでもなければ、当時の村民がどのような気持ちで
建設を受入れたか知らない分際で、口出しする話でもありません。
ですがそれは理屈の話。
心情としては「沈む前の集落も見たかったなあ…。」という気持ちでいっぱい。
「もったいない」精神ですね。
僕が廃村を写真に撮りたいと思ったのも、「廃」に惹かれたというのもありますが、
この感情が主だったものと、常々感じます。
記憶というのは留めている誰かがいなくなれば、無になってしまいます。
「そこに〇〇という村があった」という事実が、「あったのだろう」になってしまい、
いつしか幽霊になってしまうのです。👻
いつの日か無くなる村を、何十年も記録に留めておくことが出来れば、
奇特な人がそれを探し幽霊が現世に復活する日も出てくるはず。
それを慈しむ感情を亡くしたくないものだなと、今回の探訪で強く感じました。
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参考資料・文献
『浦山地区総合調査報告書』
『秩父・浦山 ~山村集落の回想録~』
『山村を歩く』
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その後いつもの武甲温泉に入って帰りました。
おわり。
(※廃村探索は非常にデリケートな趣味です。マナーを守った上での娯楽だと言うことを意識した
行動をお願いいたします。)