前回の続き。
西松瀬(にしまつぜ)から野積川に架かる橋を渡ってみると
どこかの家から小気味良く薪を割る音が聞こえて来る。
東松瀬(ひがしまつぜ)集落。
現在の世帯数2戸、人口不明。
起源は判然としないが西松瀬より古い村落で、かつては単に『松瀬』と呼ばれていた。
元は山奥にも集落があり、麓と分けて上松瀬、下松瀬と呼んでいたとある。
西松瀬でも触れた通り、松の樹がこれより奥の集落に1本もないことから
『松末(まつすえ)』が転訛したとされ、西松瀬の開村により『東』が付けられた。
流石に絵図に描かれたものではないだろうが、屋敷横で立派な松が手を伸ばしている。
炭焼や桑・楮の栽培を主に行ったが、西松瀬よりも人口が多いことから
より多くの開墾をしたのだろう、昭和期には田畑が一面に広がっている。
西松瀬の区長さんが語った通り、立派な屋敷と薪割りの音が響く民家以外からは
人の気配を感じなかった。
集落奥からは秋頃に人気がある里山、夫婦山への登山道が伸びる。
他村との交流も多く、夫婦山の向こうの小井波(こいなみ)や桐谷(きりたに)には
当地の親類縁者もいて、かつては慶弔の度にこの山道を越えて向かったと言う。
明治5年26戸。赤石(あかいし)の対岸にも耕作地が広がっていた。
当時近くの山々から眺めれば、炭焼の白煙と広がる棚田が遠望できたことだろう。
活気が溢れた山村集落にも昭和45年頃から離村の波が押し寄せ、
昭和の末頃には6戸が居住するのみとなってしまう。
耕作地も多くが放棄され、草葉茂り緑へと還って行った。
平成に入ってから野積川南縁に管理釣り場併設のオートキャンプ場
『八尾魚の公園』を建設して集客を図ったが、アクセスや豪雪の厳しさから
いつの日か事業を畳んで撤退している。
祖父岳を眺めるロケーションは見事だが、やはり交通が気軽とは言い難かったのだろう。
村社は神明社。
本殿の神額には『熊埜社』とあるが詳細は分からずじまい。
鳥居横の忠魂碑には多くの出兵者の名が記されている。
祖父岳は八尾から見ると三角だが、こちらから見ると丸い頭が何とも親しみ深い。
春になれば登山に来た際に、また再訪したいと思う。