前回の続き。
一旦桐山(きりやま)から暫く野積を離れ、隣の卯花へ足を運んでみよう。
小井波(こいなみ)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)
百人一首の歌人が一人、猿丸大夫の逸話・伝説は全国各地に点在するが、
小井波は大夫が終の棲家とした地と実しやかに語られている。
その昔(所説あるが元慶年間(877-885))里人が住まう当地に猿丸大夫が流れ付き、
ここに庵を結んで終生暮らしたと伝えられる。
『婦負郡志』では渓水が幾十も重なり、奇岩の上を流れてさざ波を起こす様から
『小さい波』を由来としている。
上笹原(かみささはら)へと続く道では別荘川の奇勝が見られ、正に名を体現している。
明治大火の折に作られた『井波焼歌』では、猿丸太夫が開墾するまで稲作が行われず、
里人はこの時初めて稲を見たことから『稲見』と名付けたと歌う。
その後稲見が『井波』となり、井波町と区別するため『小』を付けたのだろうか。
また越中旧説話や伝説を纏めた『肯構泉達録』によると
大彦命越中に至り給ひ伊豆部山(いつべやま)の下杉野に玉趾を留め(略)
伊豆部山は婦負郡小井波夫婦山の事にて命居給ふ所は内裏村なり
(野崎雅明『肯構泉達録』)
崇神天皇即位10年四道将軍の大彦命が当地の里山、夫婦山の麓に立ち寄ったとされる。
斯様な伝説の真偽は兎も角、下流の上笹原、下笹原(しもささはら)の旧家は
当地より出たと伝わり、その古さが相当なものという裏付けになっている。
かつては東に諏訪様、上に観音様が鎮座していたそうだが現在では耳にしない。
一時は山中で石灰の採掘が行われ、10基を超える焼窯があった。
井波灰と称した良質な石灰で、町の肥料問屋へ卸していた。
上笹原ではこの石灰を麓へ歩荷して駄賃を貰っていた者もいたが
遠く運賃が嵩むことから価格競争に負け、明治末期には市場から姿を消した。
かつては100名以上が暮らしていたが、昭和50年7戸22名。
無住化は昭和50年代半ば~60年頃と推察したが、近隣の方にお伺いしたい。
現在は集落北西に巨大な養豚施設が建ち、住居のあった付近は柵や有刺鉄線が張られ
部外者の侵入を拒んでいる。
北東の広大な耕作地は、某氏の話では養豚用牧草地に転用されているらしい。
桐谷小学校小井波分校は明治13年2月に分教場を開設、同20年4月に大火で類焼したが
以降昭和52年の廃校まで97年間、1世紀近く学童を支えた学び舎だった。
跡地は判然としないが、写真背後の山の角度や屋根の形状を鑑みると
それらしい建物が見られた。生憎養豚施設の内部なので確認は難しい。
隣の桐谷(きりたに)や上笹原よりも200mほど標高が高い。
山向こうの東松瀬(ひがしまつぜ)が2m近く積もるので、さらに更に上回るだろう。
豪雪は昭和中頃まで山と町を隔絶する障壁で、長期間陸の孤島となったのは想像に難くない。
しかし厳しい雪は春の恵みも齎し、冬を乗り切った後に山で採れるススタケや
フキノトウ、コシアブラの味は何事にも代えがたいと述懐している。
村社は八幡宮。
瓦葺の立派な本殿は意匠も見事で杉林の中で風格を漂わせていた。
今ではなかなか人も立ち寄らないようで、力無く垂れた注連縄と傾いた扉が
集落の退廃を表していた。
春にはミズバショウの群落が咲き乱れ、多くの観光客が見物に訪れる。
またいずれ満開のミズバショウを見に再訪したい。