2020年から続いた新型感染症によって長らく休止していた集落探訪、
落ち着いた頃合いを見計らいつつ無住集落へ訪れた。
河内(かわち)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市R5住民登録人口)
熊野川左岸に張り付いた深い谷間の狭小地であることが地名の由来。
集落の由緒は判然としないが、近隣の谷々と同じく落人伝説が伝わり
永正8年(1511)熊野川三枚滝にて雨乞い祈祷を行ったとされ(『大山史話』)
500年前には既に当地まで人が入っていたことが伺える。
熊野川流域集落の最奥に位置し、念仏僧播隆上人の故郷として知られる。
播隆は中村家次男として生を受け、円空の時代から廃れていた笠ヶ岳登拝の再興と
槍ヶ岳を開山し、登山史に多大なる影響を与えた。
幽谷の奥、峻嶮屹立する槍ヶ岳に鉄鎖をかけ
万人に広めた彼の功績は近代アルピニズムに燦然と輝いている。
55歳でその生涯を終えた後、当地にて深い眠りに付いている。
生家跡には播隆を語る石碑が建立され、
毎年6月には彼を偲ぶ祭が日本山岳会富山支部主導の元催されている。
集落戸数は6~11戸で推移。
村に学舎はなく子供達は熊野川対岸小原集落の
文珠寺小学校小原分校(1961年閉校)に通って勉学に励んでいた。
『角川』によると主産業は良質の杉が採れたことから杉板が、
幕末から石灰製造が行われると山を隔てた小坂・大清水へ運搬されていった。
戦前・戦後まで安蔵~小原を経由する小原道が唯一の往来であったことから
山を挟む集落との横の結び付きが強かったと考えられる。
小原の南方に千野谷黒鉛鉱山が拓かれ、戦後国内唯一の黒鉛鉱山として隆盛すると
昭和25年頃河内~上滝(r184)がトラック搬入道として整備され
当地を通って黒鉛が市街地へ降ろされていった。
村社はこの辺りで珍しい八幡社で武神を祀ることから、
当地が落人により開村されたことの根拠となっている。
離村は『村の記憶』によると昭和37年。
近隣で最も人口が多かった小原が昭和36年から学業・生活の都合で過疎化が相次ぐと
それに準ずるようにその周りの村々にも離村の波が押し寄せた。
現在は大山地域を代表する里山高頭山の起点として春先に多くの人が訪れる。
残された石仏はかつて奥山に住まう者達の信心深さを偲ばせ、
令和の今も当地の傍らで往来を見守っている。