皐月の5日と言うのに、外で遊ぶ子供達はめっきり姿を消している。
人に遭うことは可能な限り避けねばならないのは、集落探訪にしても同様。
今回は家から1時間半程の、2つの無住集落に足を運ぶことにした。
草嶺(そうれい)集落。
現在の戸数0戸、人口0名。(南砺市R2住民登録人口)
村の出自は判然としていない。
元和5年(1619)の文献に名があることや、利賀の多くの集落が500年前には
既に今の名で呼ばれていたことから、藩政初期には成立していたと見られる。
ソウレイは北陸~中部の広い範囲で草地斜面、特に焼畑を指す地方語。
焼畑では植樹⇔伐採のサイクルを繰り返すことから『ソリ(反)』が転訛したとされ、
柳田國男は著書にて「三河では蔵連(ex.大ヶ蔵連町)越中では草嶺と記す」とし、
また緩い崖地『ゾレ』にも焼畑の意があると説いた。
これは焼畑耕作にはゾレのような地形が向くからとか、
樹々を伐採して行う焼畑では地盤が脆くなり、地形が自ずとゾレに近くなるから等
様々な説があるが、つまりソウレイも単純な焼畑の意ではなく
こういった地形であったことが先行して名付けられたとも考えられる。
明治22年17戸135名を数え、小さい村ながら活気が溢れていただろう。
昭和40年以後から瞬く間に人口が減少し、平成12年には全戸離村した。
(正確には平成11年?)
数年前まで通い耕作も行われていたようだが、今は往時の人家も消え失せて
かつての木製電柱がその古さを語るように佇んでいる。
集落に残された鉄道車両のようなものの詳細は不明だが、
村史によると草嶺は山田村高清水(こうしみず)と縁が深く、
茅葺の葺き替えの際には双方行き来して手を貸し、連絡道も存在していた。
高清水では一時黒鉛運搬線路の敷設計画があったが、その類だろうか?
しかしそれにしては新しくも見える。
村社は八幡社。
彫刻で有名な井波町の彫師による、見事な龍や獅子が印象深い立派な神社があった。
離村後も丹念に手入れされていたが、管理が難しくなったか2年程前に解体された。
集落内には昭和10年開校の利賀小学校高沼分校草嶺冬季分校があった。
郷土資料によると、集落奥の屋敷裏手から神社方向に向かって進んだ先に
校舎があったらしい。
利賀村には各々の集落に分校・冬季分校があり、豪雪の困難を犇々と感じさせる。
昭和52年にこの学舎も閉校し、今は草葉に埋もれて深い眠りに付いている。
射干・チューリップ・芝桜…今では住む人も途絶えた集落には
かつての住民が育てていたであろう花々が、春の陽射しを受けて咲乱れていた。
人の不在など意に介さない彼らの逞しさが羨ましい。
集落に暫しの別れを告げ、杉林の中へ進むこととする。