上市町には全国から選定された昭和の名水100選の1つ、
今も好んで汲みに来る人が多い『穴の谷(あなんたん)霊水』が
中心地から約6km離れた山奥に湧き出ている。
その穴の谷の黒川集落側分岐で、郷川に沿い数km走った先に目的地がある。
五位尾(ごいお)集落。
現在の世帯数0、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
古くからこの地に住まう方の間では『ごいのお』と呼ばれることも多い。
明治の地図でも『五位ノ尾』とある。
地名の由来は判然としない。
立地に関係すると思われるが推測の域を出ず。
(『数字+尾』の例では、県央部の八尾町は『8つの山の裾野が伸びる地形から』という説あり。)
(PS.『五位』の地名は日本各地に点在する。
これは奈良時代の身分等級によるもので、上から5番目の五位に属する者は貴族階級にあり、
身分的・経済的に様々な特権を有していた。
領地権が認められるのも五位からで、故に貴族が領有した土地を『五位』と付けることが
多かったと言われている。
また私有山域が多かったこともあり、近くの山を一ノ尾、二ノ尾等と数えたりしたそうだ。)
源頼光の家臣碓井貞光の子孫が源平合戦(1180~1185)の際に流れ着いて
当地を開拓したのが集落の始まりと言い伝えられている。
実際に末裔の碓井姓が今も住まい、昭和初期まで竹鞘入りの日本刀が継がれていた。
源平合戦の壮絶さを語るような、生首谷や隠れ林と呼ばれる地名があるとのことだ。
(実際の地理関係は不詳。)
近代に入ると、日々の暮らしの糧として養蚕や麻の製造加工を営んだ。
大正~昭和10年頃まで葛粉の生産が最盛を迎える。
特に葛粉は当時大きな収入源で、時期になると一家総出で励んだところも多く
明治30年頃に財を成した家は200円(当時の所得基準で約400万円)を寄進したとある。
しかし何と言っても周囲を森林で囲まれた集落であったことから、
一部では昭和50年頃まで、薪炭の製造・搬出が主な収入手段として用いられた。
車のない頃、遠いところで12km先の滑川までアカシ(割木)を背負い、
3時間以上もかけて届けに行った。
当地の教育分野としては、集落上部の分校があった。
南加積小学校五位尾分校は明治34年に建てられた常設分校を前進として創立。
大正10年に焼失するが再建され、長きに渡り当地の就学児童を支えた。
昭和52年に在学児童が0名となり休校、
以後集落の公民館として用いられて平成17年10月廃校。(南加積小学校 学校年鑑)
104年の歴史に終止符が打たれた。
暫く住民の心遣いにより残されていたようだが、現在は更地になっている。
訪問記録を見ると、平成23年に豪雪(平成23年豪雪)で校舎の玄関屋根が崩落、
その年の内に取壊しになったようだ。
集落人口は大正期50戸をピークとし、昭和32年42戸192名と同水準で推移していたが
高度経済成長期後、急激に右肩下がりとなる。
多くは町の麓集落や近隣の市町村への移住を選んだ。
平成16年には定住者は2戸となり、現在に至る。
当地の獅子舞は近隣でも名が通っていたもので、
谷から離れた山間で立山連峰の颪も無縁、比較的温暖で作物の生育にも向く土地柄、
早月川の集落では『嫁に行くなら五位尾へ』なる唄もあったそうだ。
今では往年の賑わいも去り、どこか寂しそうに閑散としている。
いつしかこの集落に活気が戻る日が来ればと思う限り。
※校舎写真は解体以前に当地を訪問したinoue1024様にお伺いしたところ
快く掲載許可を頂けたものであり、ここに感謝の意を述べさせていただきます。