前回の続き。
草嶺(そうれい)から南上すること3km。
雑木林の中へ降りる道が見える。近くの平場に停車して歩くこと15分程。
押場(おしば)集落。
現在の戸数0戸、人口0名。(南砺市R2住民登録人口)
集落の起源は判然としないが、江戸時代の地図には既に名前がある。
草嶺と同じく藩政初期に既に成立していたのだろう。
この両集落は村史でも記述が薄いため、是非詳しい方にお聞きしたい。
憶測に過ぎないが、『分類山村語彙』において次のような記述がある。
かつて雉や貉、熊といった鳥獣を狩る際に用いた原始的な罠をオシ(オス)と呼んだ。
木材をトンネル状に組み、果実や肉等の餌を仕掛け、草葉で外観を隠す。
獲物が中に入って餌を取ろうとすれば天井が崩れて、大量の岩が落ちてきて
獲物を圧殺して捕らえるという代物である。
(いわゆる『デッドフォール』と呼ばれる罠の一種。)
このオスを仕掛けるに適した土地、すなわち罠猟地をオシバ(オスバ)と呼ぶ。
明治時代にはこの林中に10戸と100名近い住民が養蚕や和紙製造を行って暮らしていた。
村内の砂利道の辺りに、五箇山地域の各所にある念仏道場も建てられ
敬虔な浄土真宗徒の信仰の場となっていた。
完全な無住化は平成12年頃。
今では当時の家の多くが朽ち果てて疾うに解体されているが、
幾つかの建物と、当時の村内道のようなものが感じ取れる。
残存している家屋は、20年ほど前に離村したとは思えないほど小綺麗だ。
時折様子を見に来られているのだろう。
残された淀んだ池には新しい生命の息吹が見える。
利賀小学校北豆谷分校押場冬季分校は昭和5年に開校。
集落を長らく支えた学舎も、昭和43年に閉校する。
この写真もどの方角で撮ったか検討が付けられないが、写真奥の崖道が
西岸林道(林道仙野原線)とするならある程度は目星が付けられそうだ。
集落内では現在地質調査が行われている。
建設工事中の利賀ダム由来のもので、完成すればこの谷の景観も一変することだろう。
流石に集落内部まで水底に沈むことはないだろうが…。
村社は神明社。
かつて小さな獅子舞もあった社は、一村の盛衰をどのように眺めているだろうか。
繁々と育った草花が、ここに訪れる者も疎らと訴えるかのようで
一抹の寂しさを感じさせていた。