アウトドアと飯のあれ

神奈川→富山在住のアウトドアと飯と旅行のあーだこーだ

2020年5月5日 南砺市:旧利賀村②押場集落

前回の続き。

 

草嶺(そうれい)から南上すること3km。

雑木林の中へ降りる道が見える。近くの平場に停車して歩くこと15分程。

 

f:id:akiranngo:20200507202825p:plain

現行。

押場(おしば)集落。

現在の戸数0戸、人口0名。(南砺市R2住民登録人口)

 

f:id:akiranngo:20200507202845j:plain

集落内部。

集落の起源は判然としないが、江戸時代の地図には既に名前がある。

草嶺と同じく藩政初期に既に成立していたのだろう。 

この両集落は村史でも記述が薄いため、是非詳しい方にお聞きしたい。

 

f:id:akiranngo:20200507203132j:plain

集落中程の倒壊家屋。数年前までは残存していた。

憶測に過ぎないが、『分類山村語彙』において次のような記述がある。

かつて雉や貉、熊といった鳥獣を狩る際に用いた原始的な罠をオシ(オス)と呼んだ。

木材をトンネル状に組み、果実や肉等の餌を仕掛け、草葉で外観を隠す。

獲物が中に入って餌を取ろうとすれば天井が崩れて、大量の岩が落ちてきて

獲物を圧殺して捕らえるという代物である。

(いわゆる『デッドフォール』と呼ばれる罠の一種。)

このオスを仕掛けるに適した土地、すなわち罠猟地をオシバ(オスバ)と呼ぶ。

 

f:id:akiranngo:20200507202907j:plain

住居跡。残された五右衛門風呂。

明治時代にはこの林中に10戸と100名近い住民が養蚕や和紙製造を行って暮らしていた。

村内の砂利道の辺りに、五箇山地域の各所にある念仏道場も建てられ

敬虔な浄土真宗徒の信仰の場となっていた。

 

完全な無住化は平成12年頃。

今では当時の家の多くが朽ち果てて疾うに解体されているが、

幾つかの建物と、当時の村内道のようなものが感じ取れる。

 

 

f:id:akiranngo:20200507203017j:plain

残存家屋。茅葺の立派な建物。

残存している家屋は、20年ほど前に離村したとは思えないほど小綺麗だ。

時折様子を見に来られているのだろう。

残された淀んだ池には新しい生命の息吹が見える。

 

f:id:akiranngo:20200512235257j:plain

往時の押場集落。

利賀小学校北豆谷分校押場冬季分校昭和5年に開校。

郷土史の記述によると、前述の念仏道場の目の前にあった。

集落を長らく支えた学舎も、昭和43年に閉校する。

 

この写真もどの方角で撮ったか検討が付けられないが、写真奥の崖道が

西岸林道(林道仙野原線)とするならある程度は目星が付けられそうだ。

 

f:id:akiranngo:20200516193032p:plain

昭和50年代の押場。

集落内では現在地質調査が行われている。

建設工事中の利賀ダム由来のもので、完成すればこの谷の景観も一変することだろう。

流石に集落内部まで水底に沈むことはないだろうが…。

 

f:id:akiranngo:20200507202931j:plain

村社。

村社は神明社

かつて小さな獅子舞もあった社は、一村の盛衰をどのように眺めているだろうか。

 

繁々と育った草花が、ここに訪れる者も疎らと訴えるかのようで

一抹の寂しさを感じさせていた。