前回の続き。
深道から更に南方へ4kmの道程を進む。
展望が開け、猩々袴や岩団扇の花々が咲乱れるのでそれほどの苦ではない。
高清水(こうしみず)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)
村落の成立は寛永年間(1624~1645)末頃とされている。
深道の村人某が開いた出村で、このあたりが加賀・富山藩領境にあたるため、
番所を置いて役人が常駐していた。
地名は高地で清水が涌き出したことに由来すると云われ、訪れて見れば成程、
豊富な沢水が地内を渡り、幾輪もの水芭蕉を咲かせている。
また八尾町旧卯花村に中根(なかね)集落(現:上笹原(かみささはら)の小字中根)があり
中根の奥にはかつて高清水という集落があったと言われ
『卯花村史』はこの高清水に暮らしていた者が山田村奥地に移り住み一村を開いたのが
当地名の由来と語っている。
当地を語るにあたって外せないのが黒鉛鉱山だ。
集落を川側へ下って行くと鉱山があり、かつて多くの人夫が暮らした。
昭和22年~41年の日本の黒鉛総採掘量は37,300t、その内10,600t
つまり当時の国産黒鉛の1/4相当が当地から産出したものだった。
主に高岡に卸され、鋳物に用いられていた。
昭和30年代からは安価な輸入黒鉛が市場を占め、また人件費や木材の価格高騰に圧され
41年に閉山、今では坑口も崩れて山に還っていった。
長らく学舎がなく、村の学童は深道の分校へ通った。
子供の足で1時間半の未舗装路は困難の連続だっただろう。
昭和34年鍋谷小学校深道分校高清水冬季分校が開設してこちらに冬季通学した。
中学生は冬季になると利賀村高沼(たかぬま)や深道の民家に下宿して通学した。
昭和42年閉校、暫く通いの山林管理の方が作業場として用いていたそうだが
近年ついに倒壊し、露わに地に伏せている。
集落には合掌造りの建物があり、いくつか廃村の折に移設された。
焼岳温泉や富山合掌苑に移設されたとあるが、いずれも場所が判然としない。
富山合掌苑に関し調べてみると、一昔前に市民病院の近くに同名の飲食店があった。
当時のCM。バブル時代に老朽化で取り壊されたとある。
ある棟はニューヨークまで移され、茶室として用いられていたらしい。
村社は牛嶽社があったが、離村翌年の昭和43年に婦中鵜坂神社に合祀。
それと分かる遺構が校舎跡すぐ近くに今も残される。
一時は黒鉛採掘により賑やかであったろう山村も、半世紀前の昭和42年に全戸離村。
鳥の囀りのみが響き渡って久しい。
利賀側からの道は崖崩れで通行できないと当日の通行人から伺った。
いずれ山田側からも通れなくなり、人々の記憶からも薄れてしまうのだろうか。
またの機会に、今度は利賀側からも来てみたいと思いを馳せ、
来た道を辿って麓に着いたのが、出発から6時間後の14時頃。
山に暮らすことは言葉ほど簡単ではないと身に焼き付いた1日だった。