今日から4日連続雨。
檜原村立旧藤倉小学校。
明治七年四月、桧原小学校第六分校として桧原村藤原の寒沢寺を
校舎として開校した。
別名を包蒙学校と呼び藤原・倉掛の児童を収容した。
(中略)
昭和四十一年四月一日 独立昇格して藤倉小学校と校名を変更した。
(『檜原村史』)
「包蒙」とは「まだ明らかでない者を包み入れる」という意味で、
それから、みんなを明らかにしていくという気持ちがあります。
檜原村には明治6年に桧原小学校が開校、翌年に6つの分校が各集落で開校。
それぞれ克明小学校(後の南檜原小学校)誠意小学校(後の南秋川小学校)正心学校(後の数馬小学校)と
特徴的な名で呼ばれましたが、いずれも学び舎として縁起が良い中国由来の言葉。
克明や誠意は現代日本でも使われ、
正心は集団の中心・大黒柱といった意味がある。
それに比べて包蒙は縁起の意味を含まない。
他の分校と同年の開校だけど数字上は末尾なので、
第一~第五の地域に属さない人達のために最後に決められた分校だからなのか。
尤もその13年後に小沢分室(後の北檜原小学校)が開校したあたり、
その辺は憶測の域を出ないのだけども。
昭和61年4月1日、数馬小学校、北秋川小学校と共に檜原小学校へ吸収合併。
現在は檜原村藤原のNPO法人さとやま学校・東京の主導のもと、
藤倉地区の年中行事・農業・伝統文化の拠点として活用されている。
校庭を利用して山菜料理会、12月には地域で餅つきも行ったみたい。
野球やサッカーボールの壁当て用の的かな。
この数時間前に立ち寄った小林家住宅で、当時ここに通っていたという
今では僕の母親と同年代くらいの方とお話する機会があった。
簡単な地域の世間話と旅行談話程度で途切れてしまったが、
もし順序が逆ならば、もう少し伺う話もあったかもしれない。
建物は2つあり、丘の上の方は多目的館だったのか。
積極的に人の手が入るからか、昭和の閉校にしては非常に持ちが良い。
集落の人は誰もが通った学校だろうし、その分思い入れが強いのだろう。
僕の通っていた学校は、20年前の児童数と大した違いがない。
少なくともあと数十年は無くなることはないはずだ。
休み時間に遊んだ小川、石膏像がどことなく怖くて目を背けた図工室、
冬の晴れた日にスキーを持ち寄って遊んだグラウンド…。
たまに1日だけ帰りたくなってしまう。
毎度毎度廃校から帰ったらこんなことを言ってるもんだから、この間
「あなたには人生逃避癖がある」とまあ御大層な分析をされたわけだが、
むしろ人生さんサイドが僕から逃避しているので仕方がないのだ。
来るもの拒まず去る者追わずの精神でやっているので、勘弁してほしい。
焼きそば食べて寝る。