秘境也。
さて、今回なぜ檜原村へ来ることになったのか。
前から小林家住宅に興味を持っていたのもありますが、それだけではありません。
今回はそれを順序立てて説明していこうと思います。
僕の古道・集落探訪は
昭和~明治の地図を見ながら、「臭い」場所を探すところから始まります。
口コミ・ネットで探すのも手ですが、宝探しに似た楽しさがあるこのやり方が
僕には性に合っているのです。
「古道巡り」で僕が重要視しているのは「昔の遺構が残っているか」です。
昭和のインフラ工事で、多くの古道はアスファルトの下へ消えてしまいました。
もちろん彼らも広義では古道と呼べるのでしょう。
しかし古道歩きというからには、昔の足跡を感じ取りたいのが本音です。
では昔ながらの道が残っているところは、地図でどうやって見つけるのでしょうか。
1つ手っ取り早い方法があります。
技術が発展した現在でも機械が入れないところを探せば良いのです。
その代表と言えるのが、古より往来の人々を悩ませた「峠路」です。
現行の国土地理院地図をどうぞ。
奥多摩~檜原村藤原まで、峠を越えて黄色の点線が走っているのが見えると思います。
藤原~小河内峠間は御前山への登山道「陣馬尾根」。
古来の人々はこの尾根を通り、炭を売りに行っていたことは前回触れました。
そして奥多摩~小河内峠間は、現在では「清八新道」と呼ばれています。
(以降2つの道を総称して「清八陣馬」と呼ぶ。)
当時奥多摩へと繋がっていたポイントは奥多摩湖の底へ消失しましたが
今でも小河内峠を経由して奥多摩と檜原町を結ぶ、大部分が残存しています。
元々は奥多摩側から清八陣馬を通り小林家住宅へ向かい、再び奥多摩へ戻る予定でした。
で、こっからがようやく本題。
途中で分岐して、少し逸れた場所に集落がありますね。🐒
等高線から読み取ると小林家住宅に勝るとも劣らない、険しい斜面に位置してます。
どうです?何かこの赤の道と「猿江集落」どことなく気になりませんか?
地名学で言われる言葉があります。
「山で動物と樹木の漢字が付いた地は危険。」
もちろん「良く見かけるから『〇〇』と付いた」という土地も多いでしょうが、
実は「漢字」は適当に付けられた、当て字であることが多々あるのです。
檜原村というと、桧が多いことが想像される。
しかし、実際見て歩くと、名物になるほどの桧林は見当たらない。
昔もそうであったと思われる。
もともと村名は桧とは関係なく、
古文書には ひの原、日原、ヒノ原、日野原などとある。
(中略)関東武士の日野に関係のある名前と思われる。
(『檜原村異聞』)
古い地名で本当に考えなければならないのは、実は「読み」の方。
「さる・ざる」つまり「去る(人が離れる)」「礫る(崩壊箇所)」から、
「猿」と付けられた山岳地名は国内各所に存在し、
「江」は水と関連する谷、特に土砂災害のあった土地に付けられていました。
そして地元で興味深い話を伺いました。
「時期は判然としないが、300年程前に今の藤倉地区(春日神社周辺)で山崩れが起きた。」
「山津波は集落を襲い、当時存在した8の家のうち7つが飲み込まれた。」
「残された人々は災害を恐れ山の上層に各々の集落を作り、
それが小林家住宅、旧田倉邸、猿江集落の発祥であると云われている。」
『檜原村史』にも明記されていない、古くからの言伝えだそうですが、
藤倉地区の土砂災害ハザードマップを見ると、谷間から山へ上がる人々の心情も理解できます。
(それぞれ崖崩れと土石流の発生時、著しい被害が想定される土砂災害特別警戒区域。)
今も小河内峠を経由して御前山へ向かう人が通る、清八陣馬。
次第にこの道から分岐した猿江集落の方へと、心が寄り始めました。
清八陣馬はあくまで登山道の範疇。見られるのは精々木道や階段くらいです。
しかしそれ程興りが古い集落ならば、古くからの名残があるやもしれません。
幸いきちんと表記も標識も残っている道ですので、
何の苦も無く猿江集落への道へ辿り着きました。
荒れた道ですが崩壊はほぼ無く、前日の奥多摩の方が歩き辛かったです。
猿江集落に到着。
分岐する道のそれぞれに住居が建つタイプの分散型集落。
地元で伺ったところ、現在では麓の病院へ移ったご高齢の方が暮らしていたそうで、
体調を治された際に帰ってくるとか。(どの家かはプライバシーになるので聞いていません。)
無事に帰って来て暮らせるように。
一見「炭焼き窯かな?」と思いましたが、湧き水が出ていたようです。
以前は沢水をここから汲んで、生活に用いていたみたいですね。
集落には鳥居や階段は半ば崩壊していましたが、立派な稲荷神社が残っていました。
前述の話を伺ったお方が元大工だそうで、
「猿江集落の稲荷社を建設したことがある」と仰っておられました。
集落は平成時代の終わりかけでも現役。
交通利便性から、アスファルトや鉄橋が整備されています。
車が入れない幅員1.0mですが、きちんと名前を持っているのです。
(このような幅員1.5m未満の道は地図上で点線表記され、区分により「点線国道」や「点線県道」と呼ばれます。)
その中でもとびきり頑丈な鉄橋には簡素に「猿江橋」と命名されていました。
名前持ちとは貴様、なかなかやりおるな。
時に何百年と残り、いずれ自然に負けて崩れて消えていく一連の流れが素晴らしい。
石積は人が作る最も原始的な建造物でありながら、自然にいとも容易く負けてしまうのです。
盛衰を一本で体現する侘び寂び、例えるなら一杯で完結するラーメンです。🍜
ラーメン好きならこの耽美さが分かると思うんだけどなあ。
集落を回っていると、レールが姿を現しました。
小林家住宅でも見かけた福祉モノレール。
尾根道沿いの住居には、自動車が入れる道路がなく、地域住民は、
動力のついた手押し車を使用し必要な物資を自宅まで運んでいた。
自宅までの道幅 1m程度の私道を整備する費用は村が補助した。
村では、地域住民の生活利便性を高めるために、都道沿いに居住誘導を
図る計画をしていたが、地域住民からの理解が得られなかったことから、
住民の要望を受け、重い荷物の運搬をできるように、新たに福祉モノレールを
設置することとなった。
(『高齢社会における「ヒト」と「モノ」の移動に関する調査研究』事例4:福祉モノレール)
単身の高齢者が居住する近隣地域に5路線敷設されていますが、
特にこの猿江線がブッチギリで長く、2,416mもの距離を走っています。
木製電柱。今でも生きているのかな。
一九五九 (中略)この年、藤倉地区に電燈がつく。
一九六〇 電話は藤倉までひける。
(『檜原村史』)
山並みの展望が開けていて、まるで泉鏡花や横溝正史の小説の冒頭のようでした。
ここから物語が始まるんだ。
釘で止められた錆びた馬蹄。
小林家住宅では山崩れを警戒し、陣馬尾根で小河内峠まで上がり、
尾根伝いで五日市に炭売に行っていたと前回話しましたが、
この集落も昔は馬を用いていたのでしょうか。
集落の小祠。
そう言えば鳥居は神宮や大社などによって、形状や色が異なりますが
祠にも「この形ならお稲荷様」とか、体系化された区分があるのでしょうか。
あまりそういう話を聞かないので、詳しい人がいたら教えてもらいたいですね。
寂し気な祠を後にして歩く。足元にはフデリンドウちゃん!
ちなみに近くにはクマの爪痕と、古い糞が残っていました。ひょえー。
古びた原木が4本。
日当たりの良い地でシイタケでも栽培してたんですかね。🍄
シイタケの原木栽培してみたいんですけど、思った以上に根気がいるようです。
少なくとも賃貸暮らしじゃ無理無理無理やなぁ。🐌
この色と葉はスミレサイシンかな。
それにしてもスミレ類が賑やかに生えて、歩いていて楽しい道です。
道が住居を貫通しているので、少し通らせて貰うと炭焼き窯跡が見えました。
檜原は炭だけに頼る村といってもよかった。
(『檜原村異聞』)
昭和に化学燃料と置き換わるまで、薪炭は人々の生活必需品でした。
集落の奥地には墓石と石仏が並べられていました。
古そうな墓石には
寛政二□十一女六□
幻霜 童子
位
夏(?)月童女
享□二酉四月十九日
と刻まれていました。
今から約220年前、この集落の子が亡くなられたのかな。
倒木の先に歩けそうですが、キリが良いので今回はここで引き返すことにします。
昔はこの超限界集落にも多くの人が住み、子供もいたのです。
明治7年、藤原と倉掛の子供達が通う分校(後の旧藤倉小学校)があった際には
毎日、この山道を降りて通学していた児童がいたという事実。
麓に近づくと、比較的最近に作ったと思われる炭焼き窯がありました。
今でも使えそうというか、使ってるのかな?
ここにも相当古くに住居が建っていた痕跡がありましたが、植林場になっていました。
麓まで降りてきたところにあった馬頭観世音。
往来に祀られた石碑が、山村の険しさを静かに語るようでした。
帰りは小泉家住宅まで坂道を30分登って、モノレールに乗って駐車場へ。
最大斜度43度のモノレールで10分間。結構怖かったです。🚝💦
その後は図書館で郷土資料を読み漁って、21:00に帰宅しました。
自分と全く縁の無い集落にスポットを当てて廻った1日でしたが、
思った以上の発見があって面白かったです。
檜原村はとても1日、いや1週間では語りつくせないほど濃ゆい地域なので、
いずれ長い休みを取って再訪したいです。
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参考資料・文献
『檜原村史』
『檜原村異聞』
『東京都檜原村勢要覧』
『檜原村紀 その風土と人間』
『わたしたちの檜原村』
『檜原村民俗論集』
『檜原歴史と伝説』
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さらば。
(※現役の集落です。迷惑のかかる行為を慎み、過度に踏み入るのは控えましょう。)