前回の続き。
山を避けて久しぶりの集落探訪。
人との接触も出来る限りシャットアウトしたいこの頃、
昨年はなかなか手を出せなかった、人里奥地の廃集落を目指す。
居舟(いぶね)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(富山市H31住民登録人口)
旧山田村を代表する牛岳の東北東 標高350mに開け、元は鍋谷(なべたに)の枝村だった。
地名由来について村史は『イブク』の転訛で、山腹の泓(ふけ)地のこと、
すなわち川縁の地を指すとし、江戸の文書では『以無称』と記されている。
同地名は隣県飛騨市河合町の湯峰峠がかつて居舟峠と呼ばれていたとされており、
いずれも河川に近いため関係性が伺えるが判然とはしない。
北~東側の眺望が開け、天候が良ければ谷間から富山湾が一望できる。
奥山に居ながらにして神通川の浮舟が見渡せるので、昭和6年鍋谷から独立した際に
現在の漢字を当て嵌めるようになったと云われる。
正確な無住年代は不明だが、平成7年1戸1名。
12年から住民の記載も見えなくなるので、最後の住民が下りたのは平成10年頃か。
集落入口の物置小屋等は手入れがされているようにも見受けられるので
誰かしら通いの人がいるのかもしれない。
比較的新しく見える小屋が残されているが、内部は崩壊が激しい。
夏にも一度来たことがあるが、繁茂したイラクサに辟易した。
舗装のない道路には真新しい轍が見えるが、この先へ入る車も時折目にする。
暫くして山田川へ降りる舗装道がある。渓流釣りをしているのだろうか。
当日伺った話によると奥の深道(ふかどう)や高清水(こうしみず)の集落と同じく
木炭を製造し、作られた木炭は山田川を挟んで対岸の谷(たに)へ運ばれた。
谷に集められた木炭が更に麓の町に卸され、
当日お会いした方はその運搬をしていたそうだ。
薪炭はかつて山村の安定した収入源だったが、昭和30年代以降需要が落ち込み
日々の暮らしが保てなくなり閉ざされた集落は全国に少なくない。
急斜面で耕作地も然程大きく取れなかったことが推察できる。
他に山菜や雑穀、柿等を産物としていたらしいが、昭和40年代から相次ぎ離村が進み
地内には牛嶽神社があったが草木が繁茂して位置の特定は困難。
集落南部の建物だろうか。
合祀先は近隣集落と同じく婦中鵜坂神社と思われる。
打ち棄てられたトラックの、土に沈んだ前輪が年月を語るようだ。
荷台の雑草が青々と茂っている様がギャップを感じさせる。
この先より車も容易に入れない山道を歩いて、次の目的地へ向かう。