前回の続き。
盆地の田園を走り、集落内部の下りの細い車道を辿る。
棚田と休耕田の目立つ杉並木の中に、いくつかの家が見える。
田蔵(たぞう)集落。
現在の世帯数0戸、人口0名。(上市町H30住民登録人口)
集落上部にある東種(ひがしたね)の小字。
村の草分けは次郎四郎なる者とされるが詳細な年月は不明。
東種の開村は伝承では1850~60年頃とされるが、それより以前に居着いて
狭小地で耕作していた者もいるとされ、定かではない。
地名の由来は上質の米が取れることから『田上』が字を変えたとも、
また『新川郡見取絵圖』では『田添』と記され、田に添う村の意味とも受け取れる。
いずれにせよ古くから田園村落を形成していたとして間違いないだろう。
『村の記憶』によると廃村は昭和62年。
東種にある白萩南部小学校までの唯一の道は、未舗装の当時は階段状になっており
距離2km標高差150m、積雪期になると子供の足で30分以上かかった。
そのため登下校の際は大人が雪を踏み固めて道を作った等、
交通1つ取っても困難が立ち塞がった。
上市川ダム対岸へと渡るための田蔵橋は昭和26年流失。
7年後にコンクリート造で架け替えられたが同44年の豪雨で再度流失した。
このように水害にも悩まされたのだろう、東種から流れる川の上流に水神様を祀る
石碑が残されている。
昭和30年代の航空写真では15戸程度の小屋や屋敷が見える。
村社は三島社。草分け次郎四郎が勧請したもので藤の蔓が蔓延っていたことから
『藤の宮』と称されていた。
所在は判然とせず、残念ながら見つけられなかった。現在東種の白山社に合祀。
旧住民は麓の集落に転出し、今では通いに来る方もまばらだと言う。
かつては『田蔵の米』と寿司屋に指名されるほど良い米が取れたそうだが、
休耕田が目立つ斜面はどこか物寂しそうに見えた。
田蔵北方上市川ダム対岸、稲村(いなむら)へと続く道には短い手彫り隧道がある。
この道を暫く進むとダム湖展望台へと繋がる。
道なりに進んで一旦麓まで下り、山向こうの集落まで足を運ぶ。