近況報告ですが元気です。
年明け能登地方で発生した大震災は富山県にも少なからぬ被害を与えましたが、
私が住む県南部に関しては軽微なものでした。
そもそも年末年始は富山ではなく和歌山で過ごしていました。
仕事納め後すぐ大阪駅へ。ポパイで5:00まで仮眠。
何気に大阪で降りるのは初めて。前回は新大阪だったかな。
乗り継いで早朝から3時間半、高野山へ。
標高800mの山上にあり、温暖な和歌山のイメージを覆す寒冷地。
池も土も凍る震える寒さは富山以上。
そして、小辺路とはここから熊野本宮へと繋がる総距離70kmの古道。
金剛峯寺を参詣し、いよいよ2泊3日の旅路がスタート。
2024年は『紀伊山地の霊場と参詣道』の世界遺産登録から20年の節目。
今回の小辺路もこの中に含まれるが、実はつい最近まで
「埋もれた熊野古道」と呼ばれる程、知る人ぞ知る道だった。
熊野への道は、紀伊路・伊勢路・高野路・大峯路・北山路・十津川路などが
挙げられますが、小辺路と呼ばれる高野路は、
なぜか日の目を見ないで埋もれているといっても過言でないと思います。
そもそもこの道が高野山と熊野を繋ぐ参詣路として用いられたのは近世以後で、
平安期頃から紀伊山地に住まう民の交通路であった。
これは距離を表し、つまり「大阪~和歌山の最短経路」の意。
古くから彼らの生活基盤に欠かせない交易ルートとして機能していた。
その内容は文人墨客・貴族が好んだ『蟻の熊野詣』の煌びやかなイメージとは対照的で
日常的な使い易さを考えられたストイックを感じる。
要は、映えない。
加えて多くの箇所が昭和以降の道路開発で寸断・破壊されており
これがつい最近まで日の目を浴びなかった理由なのだろう。
しかし前述のバックボーンを知った上で地図を見て歩くと新たな発見もある。
R371(龍神スカイライン)と絡まない道の多くが、今も変わらず存続している。
それは昭和中頃までこれらの道が現役で生活に使われていたことの証左。
山越え谷渡り、或る遠き日の足音に耳を澄ます。
水ヶ峰を過ぎ長々しい車道歩きに退屈し始める頃、
ようやく土が踏めるようになる。
石仏に手を合わせ初日2度目の下り、大股集落へと降り立ったのは出発から4時間後。
昼時を過ぎ大きく休みを取る。
初日にしてこのルートの最高点 伯母子岳への登りが待っている。
伯母子岳へはいくつか登山口があるが、専らここから登られるようで、
年の瀬ながら何組かとすれ違った。
重要な宿泊地となっている萱小屋は多少手狭だが暖かそう。
無人ながら手入れが行届いている点も有り難い。
だがまだ日が高いので可能な限り進む。
足を濡らす程でもない雪が冬枯れのトレイルを埋める。
昔は牛馬が塩や干し魚、薪炭を曳いてこの峠道を踏み締めたのだ。
往時を偲ぶと水平道にも滋味を感じてくる。
峠までのトラバースと山頂までの登りは、翌日山頂には登らずと考えて
山頂経由で峠に降りることにした。
丁度昼中にこの旅で唯一と言っても良いかもしれない山頂に到着。
本年の山納めはこのピークになった。
中央左に鶴姫公園の風力発電施設が見える。
あの山の向こうの向こうから遥々歩いてきたのを実感した。
峠までの下りは日陰で凍り付き、唯一チェーンスパイクを使った。
今日の宿は伯母子峠に佇む小屋。
簡素だが手入れの行き届いた小屋で、屋根の窓から差す光で中も明るい。
荷物を下ろして翌日の下見に向かう。
伯母子峠のトラバースは例えるなら番線のない下ノ廊下で、
古来牛馬が通ったというのだから驚きだ。
岐阜『割石の高崖』を連想させ、翌朝は尾根を迂回することにした。
ラーメンを食べて暖まり19:00頃就寝。
22:00~翌4:00にかけて強烈な豪雨と暴風に何度か目が覚める。
無理して三浦峠に行くのも視野に入れたが、そちらで張れば地獄だったろう。
次回へ続く。