集落探訪の趣味を持つと、見識はともかく行動範囲は確実に広がる。
今まで行かなかった土地、興味を持たなかったものにも積極的に関わるので
思わぬ発見が往々にしてある。
今回は幼少期から殆ど行ったことがない、旧山田村の集落にスポットを当てよう。
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半世紀前から過疎地域として指定されている、市内最西部の山村である。
南西部に聳える『牛岳』は標高は然程ではないが市街地の遠方からでも望め、
霊峰として古くから親しまれ、登山対象としても名が知られている。
また過疎化・孤立地域への支援対策も自治体が一早く行い、
2000年以前からパソコンを世帯に無償貸与したことにより
単身高齢者の多い高度過疎地域を多数含みながらも、
全国で最もインターネット・パソコンの世帯普及率が高い地域である。
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鍋谷(なべたに)集落。
現在世帯数・戸数不明。(字記載無)(H27国政調査)
集落名に「山田」と付くのは、合併以前の旧山田村の名残によるもの。
旧山田村の名前を残そうとする働きかけなのか、
或いは富山市が大規模のため、地域名にダブりが出ないようにするためかも知れない。
同様の例は富山市旧大山町地域にも多数見られる。
集落の発祥は中世期(1185~1600)前後。(『山田村史 上巻』)
近隣集落と同時期、室町~戦国(1400~1500)辺りだろうか。
地図からも読み取れる通り、鍋形に囲まれた谷間の立地が地名の由来。
南東部には村を代表する牛岳を携え、牛岳への登山シーズンには
山頂直下にあたる当地周辺には多くの登山客が訪れる。
集落から約900m離れ、集落内を走る鍋谷川と山田川の合流地点に構えた
鍋谷小学校が廃校となったのは昭和47年。(『角川日本地名大辞典』)
2つの冬期分校と多くの集落域を抱えていたが、現在も残る山田小学校と統合し、
今では当時の面影は跡形もない。
数年前に建てられた石碑が、その地に学び舎があったことを知らせている。
明治5年には22戸あった家々も時代と共に数を減らし、昭和57年には8戸となった。
(PS.明治17年27戸・人口191名 『復刻山田村郷土史』より)
山田村は県内の多くの山村に漏れず、冬期は長期間交通網が断絶される
特別豪雪地帯でもある。
牛岳の直下という立地から必然的に大雪に悩まされたことだろう。
「もっと早く(市街地へ)降りたかった」というのは、某集落民の言葉。
都市にはない喜楽と辛苦を、縄のように合わせ持つのが山村なのだと。
集落奥の何某という会社の休憩場で人を見かけたが、
定住している人が去って暫しの時が流れたようで、人の住む気配を感じない。
その中で元住民が大事に育てていたであろう庭花が、過去のことなど御構い無しに
咲いている姿を見るとグッとくるものがある。
尤も市街地からのアクセスも悪くはないため、現在でも通いの人はいるそうで、
山盛りの供え物が祠に仕舞われていた。
そういった長年住んだ地への愛着・郷愁の心こそ、様々なものが軽視されがちな
現代社会で大事にするべきものではないか。
村の社は霊山信仰の流れを汲む牛嶽社。
鎮座年月は定かではないが、貞亭(1684~1688)年間の神社帳に記述があるため、
少なくとも300年以上前からこの地に根差した神社だったらしい。
参拝に寄ったところ、本殿は取り壊されてその骸が跡地に積み上がっていた。
2016年に撮影された本殿の写真がwebで確認できるため、つい最近の出来事のようだ。
人が去れども神社が残っていれば、僕のような物好きが寄ることもあるのだが。
この地に根差した神社が消えるとは、往年住まわれていた人は知っているのだろうか。
住民の方々と御神体の両方が何処の地で、末永くあることを願うばかりである。
(PS.近隣集落の既に解体された神社の御神体は、
婦中の鵜坂神社へ移されたとのことで、そちらと縁を同じくしたかもしれない。要確認。)