仕事が入って山に行けず。うーん、クソッタレ。
雪降る里を眺めながら、ふと思い出したむかし話でも。
雪降る季節、富山の学童にはスキーの授業がある。
片田舎の鼻垂れ坊主の僕も例に漏れず、かつて一通り滑れ「た」。
三十路から再開してみれば遠き想い出など見る影もなく
四苦八苦・七転八倒を繰り返し、当面足が遠のくばかり。
減少一方のスキー場もその頃は市区町村で存在した。
至近にもあったが(猿倉山スキー場)専ら行ったのは隣県岐阜の白木ヶ峰スキー場。
スキー場は2011年惜しまれつつ閉鎖したが
併設の「飛騨まんが王国」は現在も営業している。
漫画と温泉がリーズナブルな値段で楽しめ、僕はここのアジフライ定食が好きだ。
電車で来たこともあったが、蘇るのは親の車での記憶だ。
昔は降雪量も多く時間がかかり、暗く長いトンネル(加賀澤・飛越トンネル)で
うつらうつらと眠くなったもの。
しかし2000年に開通した現道以前の記憶がないということは
それ以前はそもそも冬季に走ったことがない、ということでもあるだろう。
冬季通行止の措置が取られ、両県を跨ぐ往来が不可能だった。
典型的な雪崩の多発地帯で然もありなん。
そんな県境の山肌に貼り付くように存在した2つの「加賀沢」という村があった。
富山に属する「西」・岐阜の「東」で各集落を形成したが、
岐阜の児童も富山の分校に通うなど、県を越えた結び付きを伺える。
2024年現在、両集落ともに人は絶え久しいが
先述の天険による交通の不便が大きいことは想像に難くない。
2000年夏、加賀澤・飛越トンネルが開通。
車のすれ違いすら苦慮した国道360号線は
鉄橋と隧道の開削により季節問わず往来が可能となり、今に至る。
そして現在も使われるこの橋が「三代目加賀沢橋」だ。
ならば「初代」「二代目」はどのようなものであっただろう。
数少ない貴重な資料から、当時の寒村風景を伺い知ることができる。
写るのが紛れもない初代加賀沢橋で、
ちょうどこれが撮られたであろう昭和初年頃に架橋された。
藩政期は雨降れば濁流と化す暴れ川を舟渡しで行き来していたという。
この寒村の往来に大きく寄与した木橋は、終戦直後の1945年9月の大風(枕崎台風か?)
によって墜落したが、架け替えられ暫く用いられる。
高度成長の時代を経、1964年 西加賀沢分校の閉校。
村の行末を考えた東加賀沢の人々は長らく住まった故郷に別れを告げ
散り散りになっていったことが、今も残る石碑に刻まれている。
村から人影失せた1972年に、関電が電力・山仕事向けに新たな橋を架ける。
これが二代目加賀沢橋だ。
変わらず歩道橋で、激流を眼下にした延長60m余りの吊橋を揺られ渡るのは
眼も眩む恐ろしさだったとのこと。
そして橋は疾うに滅失したが、遺物は今も集落下部の竹林の中に残されている。
雪崩と豪雨で荒狂う宮川流域での架橋は生半なことではないことを
見せつけるように、河原の傍らに転がる橋脚が物悲しい。
落橋の記録は確認できないが、当地を訪れるのも釣り人か好事家が精々。
三代目が開通し四半世紀経とう今、振り返る者は皆無だろう。
国道360号線も近年打保に新しいトンネルが開き、
見違えるように往来の便が良くなった。高山に抜ける際に非常に助かっている。
一方、今では通過地でしかないこの地で懸命に生きた人々と
それを支えた橋のことを、ふと思い出してみたい。
鳥の囀り山峡に響く東加賀沢、春が訪れる3月半ばの昼日中の話。
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