アウトドアと飯のあれ

神奈川→富山在住のアウトドアと飯と旅行のあーだこーだ

2019年5月15日 富山「旧大長谷小中学校」

久しぶりの暑さ。

 

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大長谷(おおながたに)はかつて富山の山奥に存在した村だ。

大長谷川の両岸や山間に二十余の集落を抱え、僅かな林業の収入や田畑の耕作、

木炭や養蚕、和紙等で日々の生計を立てていた。

 

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昭和40年頃に高度経済成長の煽りを受け、若年層が都会へ流出すると

村は急激に過疎化の一途を辿り、昭和60年には集落の半分が廃された。

明治40年には1,800人に届くかとされた人口も、現在では50人程にまで落ち込んでいる。

大長谷には昭和期に小学校が1校、中学校が1校、分校が2校設けられていた。

 

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明治7年 島地に道明小学校

  9年 栃折に弘明小学校

  21年 東原小学校創立

  34年 栃折 東原小学校 分教場として新築

 

大正13年 大長谷尋常高等小学校と改称

 

昭和22年 大長谷中学校創立(小学校に併設)

  30年 大長谷小・中学校焼失

  31年 大長谷小・中学校新築

  49年 大長谷中学校、八尾中学校と合併

  53年 東原分校 休校

  55年 栃折分校 休校

  58年 大長谷小学校 休校

                                                                                                                       (『大長谷郷土誌』)

富山市街から車で1時間弱、大長谷の中心集落の島地に本校があり、

各々の集落のアクセスに合わせて北の栃折(とちおり)

南の東原(ひがしはら)に分校を構えた。

 

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現在は島地の本校跡地に1軒立つ建物を残して取り壊され、

当時を感じさせるものはない。

(規模と写真から、教員棟か物置小屋だろう。往年のものか?)

 

(中学校は)

五十六年の豪雪で屋根の瓦が大半破損し、この機会にと、

ついに四月十三日取りこわしとなった。

                                                              (『大長谷郷土誌』)

人が離れると家屋の損壊は絶え間無く進むもので、

北陸有数の豪雪地帯であるなら、そのスピードも都市部のそれとは比にならない。


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栃折の分校跡地。

 

【大長谷小学校児童数】

     本校 栃折分校 東原分校 合計

昭和31年 157    73     50   280

  34年 186       70    56    312

  37年 141    55     42    238

  40年  98     39        28   165

  51年  27        9          7      43

  53年 18         6            統合       24

  55年 12       統合   -     12

  57年  6             -            -      6

                                                                                                                                                                                                 (『大長谷郷土誌』)

昭和30年以前の資料は本校の火事で滅失したため残っていないが、

30年代には分校合わせて312名もの児童数を誇っていた。

40年から51年の11年間で児童数が1/4にまで減少し、

若者不足に喘ぐ村の悲哀が感じられる。

 

栃折分校には神社があったようで、本殿は存在しないが

当時の階段等が残されている。

 

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休校後は何某の研修所として転用されたようだが、結局数年後に廃校となり今に至る。

関東では保養地やカフェ、貸スタジオとして第二の人生を歩む者の多い廃校も、

ここ北陸では生き残ることさえ必死だ。

 

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東原分校は島地の更に奥、白木峰方面へ走る手前の山中に位置していた。

当時の隣家か学校の石積が道路から確認できる。

学校道と思われる林道を発見したので、少し歩いてみることにした。

 

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結論から言うと、学校には辿り着けなかった。

藪と沢のタッグチームに敗北し、帰還。

別の道があったので、もしかしたらそこと繋がっているのかもしれない。

ただ、遺構の一片も残っているかは怪しいが。

 

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少し消化不良感は否めないが、仁歩(にんぶ)ダムへ流れる

大長谷川の清流を眺めながら、帰り道のドライブ。

大長谷は最近になって若い人が移住してきているらしい。

ジビエを活かしたパスタや山菜を用いたイタリアンが好評を博しているようだ。

白木峰に行くときには是非食べてみたい。

 

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渓流釣りも気持ちよさそうだ。今年はデビューしてみようか。

こういうことを口に出すと大抵そこで満足してやるやる詐欺になるわけだが…。

 

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実は今日5月15日は登山を始めて1周年。

1周年記念で登山へと洒落込もうと思ったが、また後日に勘弁してほしい。

5月中には…うーん…難しい。

 

それでは。