今日では『有峰』(ありみね)という地名に、聞き馴染みある登山者も
多いのではないでしょうか。
ここには日本百名山 薬師岳の登山口があり、昔は有峰集落がありました。
有峰集落は喧噪途絶える深き山中に静謐に広がる桃源郷であったと同時に
霊峰薬師岳の登山拠点であり、深山幽谷・藪分け入り薬師岳への登山を試みる者達が
繁くこの地へ訪れたと伝えられています。
有峰集落も約100年前の大正9年(1920)に離村、昭和34年(1959)の有峰ダム竣工により
今では有峰湖の湖底へと沈んでしまいました。これの話はまたいつか。
現在、前述の通り有峰折立には薬師岳への登山道が延びていますが、
新たに開かれた新道であり、古くからの登山道はまた別にあります。
それが今回の主題『旧薬師岳登拝道』です。
『薬師詣旧道』、太郎山を乗り上げることから『太郎道』とも呼ばれたそうです。
現在の折立経由の登山道がまだない頃で、
太郎道と呼ばれる尾根道を登って小畑尾峠に達した。
(橋本廣『有峰周辺山歩きの記憶』)
詳しい年代は不明ですが、南北朝時代(1336~1392)に開かれたとされ、
薬師岳の開山については次のように述べられています。
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名を『ミザの松』という、駕籠の担荷棒作りを生業とする貧しい男が暮らしていた。
彼は夢でお告げがあり、里に社を建てた。これが今の『里の薬師』と呼ばれる里宮である。
(町史は創建を明徳元年(1390)としている。)
ある時彼がミザの平と呼ぶ場所で寝ていると、名を呼ぶ声がする。
声に目を覚ますと、光輝く薬師如来がおわした。
驚いてミザの松が如来の元へ近づくと、如来は更に遠くへおわす。
幾度かと繰り返していくうち、次第に高き山を登り上げ、如来は『五ノ目』の石堂に入り姿を消した。
ミザの松はこれを祀り『岳の薬師』が建立した。ここに薬師岳が開山したのである。
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明治後半の近代登山史においてもこの道が主に用いられ、薬師岳を登るために
多くの登山者が有峰を訪れました。
彼の著書『山と渓谷』は『ヤマケイ』でお馴染み山と渓谷社の元となった本で、
彼は薬師岳がとても気に入ったようで、同著や他の本で旧薬師岳登拝道による
登頂の様子を振り返っています。
薬師岳を憶ふ
尨大な山容と、永劫不滅の白雪と、颯爽たる高原と、幽谷と、
傳説に豊かな麓の孤村とをもつ薬師岳ほど、私の心を動かしたものはない。
(略)
私はこの山に登ること三度、二度は有峯から、あとの一度は縦走によつた。
しかし縦走による興味は、有峯から登るそれに比べて遙かに少ない。
有峯にはひるその事が深川幽谷を究めると同じ意味をもつてゐる。
(田部重治『峠と高原』)
有峯から眞川の幽谷に入り、更に太郎兵衛平の茫々たる八千尺の高原へと
幽林を分けつつ登り、高原に立つて遙に槍ヶ岳の峻峯を仰ぎ、大日岳の
連嶺を眺め、薬師岳の山容を前面に仰いだ時、また峯頭に立つて
信越飛國境の峻峯競ひ立つ有様と黒部川の神秘的な渓谷とを見た時、
私は初めて未知の歡喜の世界が新しく展開されつつあることを感じた。
(田部重治『峠と高原』)
それでは次回、
当時の薬師岳の宗教登拝とはどのようなものだったか、について触れていきましょう。