前回の続き。
『立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏に
見れども飽かず 神からならし』
盛夏にも雪が残る立山は見飽きるということがなく神々しい、と歌った
どの山を指したか、あるいは連峰全体を含むのか定かではありませんが、
立山は一句読まれるほど昔から名の知れた山でした。
一方、薬師岳は今でこそ有名になったものの、
近代登山史以前はさほど名が知れた山でもなかったともされています。
富山平野のいたるところから鮮やかに望見されるが、
意外にその山名を知らない人々も多かった。
(前田 英雄『有峰の記憶』)
私はそれまでは薬師岳を富山の平原から、度々、見てゐたが、
誰も、それを薬師岳とは教へてくれなかつた。
薬師岳と名が付く前は『高貴山』『神崎山』とも呼ばれていました。
県境近くに裾野を広げており、富山から気軽に行けるようになったのは最近の話。
有峰集落自体が越中より、むしろ飛騨住民との結び付きが強いこともあって
『飛騨薬師嶽』と呼ばれ、年に1度の祭には飛騨から多くの参詣者が訪れていました。
旧暦6月15日(2020年は8月4日)は『岳の薬師祭』。
村民にとって最も重大な祭礼でした。
15歳から50歳までの男子は祭りの1週間前から精進潔白に努め、
当日は塩で身を清め、総出で山頂の御堂へ参詣に向かいました。
深夜に提灯を持って出発し、小畑尾峠(別名タワノタンノ中根 1,802m)まで尾根を直登。
峠から落差240m以上の急斜面を下降して真川(=眞川、田王(タワ)の谷)を渡渉します。
明治40年(1907)薬師岳を訪れた城川範之の『薬師嶽登山記』によると
真川といえば、誰しも、彼の九十九曲近傍、岩摧(くだ)け砂流し、
山や裸水や急なる、荒寥悽惨な景状が思い浮かばれるであろうが、
ここでは岩千年の苔蒸して青く、石や黒又褐の水蘚(こけ)をつけ、
千古人の払うなければ、色皆鮮かである。
(城川範之『薬師嶽登山記』)
立山登山のルートだった立山温泉から眺める真川の様相は凄まじかったようですが、
上流部は対照的にイワナが泳ぐ苔生した清冽な渓流でした。
明治まで厳格な女人禁制の薬師岳では、女性は真川より先へは行けませんでした。
その後谷を登り返して太郎山西面を登ること小1時間。
樹林帯を抜けた標高約2000mの高層湿原帯が池ノ段(イケノタン)。
半町四方もある平地に出ず、沮洳の草地の中に小さき池あり、
此辺を池ノ段と云う、海抜千九百二十メートルあり、
これより樹木減少して草山となり(略)
(辻本満丸『越中薬師ケ岳及上ノ岳』)
一息してイケノタンという小狭な平地についた。
真川から半里(1.9km)も来たろう。サギスゲ、モウセンゴケの群落だ。
ここで元気をついで、十町(1.09km)ばかりも登るとクサノだ。
(城川範之『薬師嶽登山記』)
池塘が棚田のように連なっている様を指した呼び名でしょう。
弥陀ヶ原の『餓鬼の田』を想起させます。
クサノ(草野?)は定かではありませんが、2100m付近の草原のことと思います。
暫く湿地帯を進むと太郎山の主稜線へ出ます。
そこから北に進み太郎山の頂を超えた先が、太郎平小屋のある太郎兵衛平。
原の一角に立つてあたりを見廻はすと、海抜七千五百尺のこの高原は、
ただ美はしい残雪と高山植物とによつて蔽(おお)はれ、處々に少しの這松が
あるのみで、吹く風も爽やかに天心をゆるがせ、丁度、
私達の通る時には、一方の空高く一羽の鷲が舞うてゐた。
ここから先は現在の登山ルートと合流し、ほぼ同一のコースを通ります。
登拝では真川・コリカケバ(垢離掻け場)ノ谷、薬師の雪水で3回身を清めて登りました。
特にコリカケバノ谷は名の通り、禊に重要な沢だったそうですが場所は不明。
薬師峠手前の岩井谷源流部かな。
『薬師嶽登山記』では
「三たび(①村~小畑尾峠②真川~池ノ段)樹林に入り十町ばかりの坂を登るとカミアナ平」
とあります。位置関係的には薬師峠~薬師平間の低樹林帯を指しており、
昔は薬師平をカミアナ平と呼んでいたのではないでしょうか。
(PS.『越中薬師岳登山史』によりカミアナ平=薬師平と判明。)
その後一ノ塀・ニノ塀・三ノ塀・四ノ塀・五ノ塀と登り、五ノ塀からは靴を脱ぎ
裸足で山頂まで登るのが習わしでした。
五十嶋一晃(太郎平小屋グループ経営会社五十嶋商事㈲社長の実兄)は
「三ノ塀を薬師山荘あたり、五ノ塀(五ノ目堂)は頂上二七〇m手前の
中央カールを背にした岩稜を指すと推察する」と比定している。
(前田 英雄『有峰の記憶』)
薬師岳の圏谷群は、カールという概念がなかった当時、旧噴火口と考えられ
『カラ地獄』と名付けられていました。地獄谷に通じるところがあります。
噴煙も噴湯もないので『空』という意味です。
長い道のりと三度の禊、途中休憩を含め御堂に着くのは出発から9時間。
稗(有峰は標高1,000mの寒冷地で、稲作に向かず稗を育てていた)から作った御神酒を供え下山し、
午後2時~3時頃には里宮で祝詞を上げて祭りを締め括りました。
村にとって重要な祭礼も旧登拝道も、離村と共に廃れ、
今では歴史自体が忘れ去られようとしています。
で、ここからようやく本題なんですよ。
どんだけ長い前置きだよ。次回『旧登拝道の現在』に続く。