富山には奇妙奇天烈な地名が各所に点在している。
そういった難読地名には東坂下(さこぎ)のように理由が判明しているものもあるが、
由来が判然としないものも多々あり、地名を研究する『地名学』なる分野も存在する。
今回尋ねるのは典型的な後者であり、その響きから
富山県で最も格好良い地名選考会が開催された折には上位をかっさらうこと
間違い無しという、ミステリアスな山村集落だ。
小佐波(おざなみ)集落 火土呂(ひどろ)。
現在小佐波の世帯数0・人口0名。(H27国勢調査)
地区のほぼ全てが居住者が確認出来ないか、または企業の小屋として用いられている。
火土呂は近年の宛字で、道村とともにその由来は判然しない。
(『大山町史』)
どことなく猛々しさが滲み出る名前だ。
蛇は見ると硬直するくらい苦手だが、怖いもの見たさで来てしまった。
(PS.柳田国男編『山村語彙』によると
陸中上閉伊郡で沮洳地のことを『シドロ』信州では『ヒドロ』と言うとある。
また新潟~東北にかけて山の皺や凹み、涸れ沢を『ヒド』とも呼ぶ。)
昭和45年の国土地理院地図では『火土名』と記載がある。
それより古い資料にも『火土呂』と記載されているのでイマイチ理由が不明だが、
『名』を書き崩すと『呂』に似る。
呂を名と読み間違えたヒューマンエラーなのだろう。
西俣の木下平作家は、ここ(火土呂)の草分けらしく、
平家の落武者として隠遁したと伝えている。
(『大山町史』)
富山各所に落人伝説が残り、合掌造りで有名な五箇山もその1つだが
小佐波近隣集落には、集中して落人伝説が残されている。
蔵を壊した時にいつぞやと知れぬ矢じりが発掘されたり、
先祖代々鎧兜を伝来してきた所もあるという。
そういった昔話の信憑性は一先ず置いといて、それにしても山深い。
昭和34年の居住者は小佐波地区全体で218名、うち子供が31名。(『分校要覧 昭和34年度』)
白山社に程近い福沢小学校小佐波分校に通学していた。
明治15年、小佐波巡回授業場として開校し、
昭和47年に福沢小学校に統合され閉校となった。
分校跡地は緑に侵略され、某電話会社の基地局や何某の資材置き場と化している。
分校で飾られていたのか、二宮金次郎の石像が入った碑が白山社に鎮められていた。
他の遺構も探せばあるのかも知れないが、文字通り『藪蛇』になるのは勘弁願いたい。
当時の授業内容を見ると、体育の時間にはフットベースボールやドッジボール、
雪が降れば雪上遊びを楽しんだとある。
『泳法』の授業もあり、盛夏に麓の本校のプールへ行くのは
山村で暮らす子供たちの楽しみの一つだったのかもしれない。
今でも先祖代々の墓へ足繁く通う方がいるようだ。
小屋は今も使われている様子で、何度か車の往来があった。
東俣の最奥へ向かう気でいたが特に何もないと感じられたし、
片道切符の気配がしたので早々に仄暗い杉林を後にして、麓へと降りることにした。