激動。
やあやあ皆様、4月ですよ、新年度ですよ。
「令和」ですよ。あと1ヶ月ありますけど。ちゃんと語句変換出来るんですね。
読みやすくて書きやすい字で良かった。
3月も末ということで土日はお隣の県にお邪魔してきました。
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日本一自然人口が少ない町。(2019年3月時点1,054人 610世帯)
東西を南アルプス連峰と身延山地に囲まれた谷合の町で、南北に長く伸びた形状をしており、
新潟から静岡へ伸びる糸魚川静岡構造線の直上に位置している。
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今回の目的地は五箇地区S集落の旧五箇小中学校跡。
「五箇」と聞くと「五箇山」を思い出しますね。どちらも山間。
五箇地区の前身、旧五箇村は明治7年~昭和31年までこの地区にあった村で、
榑坪(くれつぼ)村、千須和(せんずわ)村、薬袋(みない)村、塩ノ上村、笹走村の五ヶ村が
合併して出来た村です。
S集落は薬袋村の枝村の1つで、当時の遺構が残存しているとのことでした。
薬袋から車を走らせて暫くすると、立派な階段と門柱が見えてきました。
旧五箇小中学校跡と役場跡。
最初は役場が榑坪に、小学校が塩ノ上に建てられ、
数年後にどちらともこの地へ移設され、昭和に入ると中学校が併設したそうです。
明治~昭和にかけて五箇村の人口はおよそ1,100名。当時の子供達は一同に通学しました。
在りし日に校庭に飾られていたであろう二宮金次郎像が飾られていました。
跡地は植林場となり、当時を思わせる遺構は校庭の石積など僅かだけですが、
山里に喧噪が響き、運動会が開かれた折には、集落中の大人が我が子の雄姿を
見学に来たのだなあと思うと、どこか心寂しい気持ちになります。
当時の地図を見てみましょう。学校から千須和・榑坪へ学校道が伸びていました。
最も遠い榑坪から学校まで距離4km標高差100m、大人が手を広げた程の幅員しかない山道でした。
榑坪の子供たちは毎朝7時に集団登校し、小学校1年生になる子も一緒に
およそ1時間30分かかる道を毎日通っていたというのですから驚きです。
険しい山道を通学する不便さは大変なものでしたが、そのため榑坪の子供たちは
非常に足腰が強く、運動会ではいつも活躍していたのだそうです。
校内を少し歩いてみると、崩れかけた階段とその上に祀られている石を見かけました。
僕の拙い予想ですが、恐らくは階段の上に祠や鳥居があったのではないでしょうか。
在りし日の学校を見守っていたのでしょう。
跡地の近くに、表札のようなものが落ちて久しいのか錆びついていましたが、
裁縫は勉学と日々を繋ぐ重要な授業の1つで、当時の学校でも教えていたのは、
旧福澤小学校や尾県郷土資料館でも見られたことでした。
旧村石碑や校碑と同様に、近くの山腹に祀られていた山住神社もこちらに移されました。
前述の地図の校舎から西にある神社でしょうか。
山住神社は大山住命(=大山祇命)を主神とした神社です。
神社が建てられていた所から意味が後追いでついて、
(山岳用語で言う鞍部のことを、古くは「くびれた地形」という意味で「くじ」と呼びました。)
いつしかこの地で「くじ」の神様と呼ばれるようになりました。
昭和時代に起きた戦争による徴兵は、この地も例外ではなく
多くの人が戦争に行ったきり帰らぬ人となりました。
神社では「(子や夫を)徴兵くじに、何とぞよろしくお願いします」といった母親のお参りが多く、
「何とぞ」には「(徴兵に)合格しませんように」の意味を含む願いの方が多かったとのことです。
誰かに聞かれることを考えると、とても人前で話せることではなかったとは言え、
「戦争なんて下らないことで家族が死んで欲しくない。
家族にはいつまでも長生きしていてほしい」と思うのは母親の常。
そのような切ない話がこの神社にも込められていたのでしょう。
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参考資料・文献
『早川町誌』
『 山村史料の調査と成果-山梨県南巨摩郡早川町薬袋・榑坪・千須和-』
『早川のいいつたえ 第1集』
『農業に適した山里 五箇地区 全体編』
『縄文遺跡が残る山里 五箇地区・千須和・榑坪・笹走編』
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次回、S集落編。
じゃあね。